聖書が証しする神は、時を超えてすべてをご支配なさるお方である。その人知を超えた神には、《過去→現在→未来》という時間の流れは不可逆なプロセスではなく、一つの現実に過ぎない。その神の偉大さを信じるならば、ダビデがキリストを主と呼ぶことと、キリストがダビデの子(子孫)であるということは、まったく矛盾しない、神の目にはそうであると言うだけのことなのであり、現にダビデは神の御霊によってそう語っていたのである。
それが分からなかったということは、パリサイ人たちが聖書を即物的にしか理解しようとせず、神を神とせず、神に頼ろうともせず、表面的に聖書に従うだけであったという、彼らの致命的な不信仰、神を失ってしまった心を示している。「神と隣人を愛せよ」という言葉は、私たちへの命令ではなく、自分の力で自己改善に取り組もうとするクリスチャンの不信仰を鋭く判別し悔い改めを求める、神のみ言葉である。愛の命令は、神の力だけが人に成就させることのできる、神の約束だからである。