しかし、私たち人間は、このねじ曲がり逆転してしまった世界観こそが真理だと思って、現世で努力し、自分をより力強く、より美しく飾ることで、愛を得ようとする;この地上で、誠実に、豊かに、透明に生きることが神に愛される条件だと信じてしまう。しかし、聖書が最初から語る真理は、そのような人間の努力は、すべて、神の内にある「真のいのち」から断ち切られ、石ころのように死んでいる存在の、無意味な頑張りに過ぎないということである。
クリスチャンの目標が、現世において努力してもっと良い人間になることならば、信仰は惨めだ。その悲惨の中に、神はご自身の御子の死と復活によって「真のいのち」を吹き込んでおられる。その偉大な神の御業を信じて感謝することが、クリスチャンの目標であり、喜びなのではないだろうか?