6:30AMからの開始。
眠いし、
寒いし、
外はまだ暗い。
共にお祈りをしている中でふと気づくと
外では日が昇っていた。
建物の間に、
日光が差し込んでいた。
毎日、日は上り、そして沈む。
その繰り返しの中で、
毎年、春夏秋冬、季節は巡る。
私たちは
その規則正しい宇宙的な天体の動きの中で、
来年があるということを当然のことのように思って
計画を立て、
季節が巡ることを当然のことのように受け入れて
種をまき、
日がまた上ることを当然のことのように信じて
床につく。
その信頼感は、
人類が生まれてからこの方、
「自然」は我らを裏切らないと、
思っているからではなかろうか。
その信頼感は、
「摂理」という言葉ととして現されることもあるだろう。
・・・父なる神様の愛も、
同じように、
キリスト者にとっては、
暖かい陽の光、
私たちのいのちを支える、揺るぎないモノ、
疑いの余地なく必ずそこにあり、
心を照らすモノ。
その愛を、私はどこか、
当然のことのように信じている。
しかし、その当然さゆえに、
人が地球の自転や公転を感じられないように、
私は神の愛に対してきわめて鈍感だ。
しかし、それゆえに、
神の愛は揺るがない。
私が太陽を止めることができないように、
季節を止められないように、
私にとっての神の愛も、
私には止められないからだ。