<週報からの引用終わり>
これは、努力そのものを放棄せよという事では決してない。しかし、その努力の方向性と尽力する目的を、きちんと見直す必用が、それこそ毎日の悔い改めとして、あるという事である。
自分が聖書に照らし合わせて正しいと宣言する瞬間、その人は、同じ聖書に照らし合わせて、自分は正しくないという事も、同時に宣言することになる。それは、自分の善悪を、外的な基準に照らし合わせて評価しようとする心において、同じだからである。聖書の通りに行っているという事を誇る者は、同時に、その聖書によってその他の聖書の通りに行っていない自分の行動を責められるのである。そのように、自分の行いの誇りと、裁かれる恐怖の中で生き続けることほど、キリスト者にとって、苦しいことは無い。
キリスト者は、十字架で人間的には全く無力になられ、律法に照らし合わせれば罪びととして裁かれ、人間的な誇りや正しさなどの一切がはく奪されたキリストを、栄光へと復活させられた父なる神の力を信じているのである。それならば、人間が自分の正しさを一旦すべて放棄する事は当然のことであり、その無力の中にしか、神の力は働かないと信じることも当然なのである。・・・なぜ、そうすることができないか。
それは、私達一人ひとりが、パリサイ的律法主義者だからである。本当に戦わなければならない相手は、異なる聖書解釈から異なる伝統文化の下で神を礼拝しているキリスト者の同胞たちではない。自分たちの中にある、パリサイ根性と戦わずして、正しい教理も、正しい形式も、正しい聖書解釈もへったくれも本当は無いのである。
戦いの剣を向ける相手を間違えてはならない。