<週報からの引用終わり>
上の文章の最後に、『しかし、神を信じる信仰の中に安息している者は、神に自分の運命のすべてを、ゆだねるのである。』 と書いたが、これは、決して、『神を信じる信仰の中に安息している者は、すべての痛みや苦しみさえ、もう感じなくなる』という事ではない。
人間が人間である以上、そこには、必ず、『生きる痛み』がある。『痛みの中にあって、神に運命をゆだねる』という事は、その痛みに対して無感覚になることではない。苦しみや悩みに無感覚となることが、信仰の成熟した姿であるという事では、決してない。痛みのなかにあってさえ、いや、痛みの中にあるからこそ、自分自身を主なる神にゆだねるという、積極的な信仰のことを言っているのである(多分、そういうことを言いたいのだと思う)。その神に対する積極的な信仰は、より深い信仰へと人を導き、その導きの中で、その人は、神に心を満たされるという体験を与えられてゆくのである。
痛み、信じ、ゆだね、満たされ、そして痛む。その繰り返しの中で、人の心は、神を信じるものへと、練られてゆく。そして、過去と同じ痛みの中を通らされても、その痛みに対する自分自身の応答に仕方が、明らかに違ってくる。それは神から来る満たしを求める信仰による応答である。
その応答は、あたかも、過去の痛みをもう感じなくなっているという錯覚を生じさせるかもしれないが、実はそうではない。痛みは、恐れは、焦りや怒りは、心の中にある。ただ、それらが、より大きな神の力と慈しみによって覆われてしまっているだけなのである。
それゆえ、一度信仰を持ち、神の愛と慈しみを味わった上で、信仰の成長を経験した上で、もし、主イエスへの信仰を捨ててしまうなら、その人の心は、それこそ瞬間的に、以前の痛みと苦しみの中に逆戻りしてしまうのである。・・・信仰を捨ててはいけない。