聖書は、律法に違反する者には神の怒りと処罰が下るという。しかし、人は、自分の手に負えない「原罪」の故に、どうしても律法を守り切れない。このため、神を喜ばせようとして正しく良い行いの目標を自分に課すことで、人は精神的に追い詰められ、やがて、その従順の努力の中で自滅してしまう。
「あなたが、もっと努力して、神を喜ばせなさい」という自己改善の目標は、信者を奴隷の恐怖へと陥れる。人が必要としているのは、むしろ、「神があなたを生き、神がすべてを成し遂げることを、神が喜んでくださる。」という、神の恵みへの、全き、明け渡しと依存の道、すなわち、キリストの十字架と復活との一体化への招きの言葉を聞くことである。信仰とは、人の努力ではなく、むしろ、自分を新しく生まれさせ、まったく愛されるだけの者としてくださる神の恵みを喜ぶことである。