<週報からの引用終わり>
ペテロは、主イエスの栄光の現れを目撃し、幕屋を建てようと願い出た(ルカ9)。民イスラエルは、エジプトから彼らを救出するために神がなさった偉大な業の数々を目撃したが、金の子牛の像をつくってそれを拝んだ(出エジプト32:1)。いずれも、人間が、神の栄光の現れを、何かしらの人間の手で作った物体に押し込めようとした結果である。
しかし、現代の教会にあっても、人がもし、「神はこれこれの素晴らしいことをしてくださるお方です」という心で、神を定義しようとするなら、それは人間の思い描いた理想という偶像の中に神を押し込め、閉じ込めようとする、一種の偶像崇拝になるだろう。
神の栄光を「人間の手で作った物体」の中に見出そうとする気持ちは、例えば、人間が見てすごいと思えるような立派な建物とか、人間が考えて賢い・正しいと思えるような教えとか、人間にとっていかにも宗教的で敬虔に見える行いとか、いろいろな形を取って、現代の教会の中に存在している。
そして、それが本質的には偶像崇拝だと人に気付かせるのは、十字架に付かれた神の御子の御姿なのである。