パウロは、Iテモテ1:15-17において、こう語る:「私は、その罪人の頭です。」 パウロは、自分は罪人の頭「だった」と過去形では語らず、むしろ、自分は罪人の頭で「(今、ここで)在る」と書いている。パウロは、自分が神の働きにふさわしい人間なので、神に用いられているとは考えていなかった。むしろ、自分は依然として邪悪極まりない存在であるが、そこに自分を罪から解放する十字架の力と、新しく自分を生かす復活の力が働くことによって、自分は今の自分とされていると、彼は信じていたのではないか。だからこそ、パウロは、自分の、テモテの、あなたの、私たちの、そして教会の存在を、神に託して次のように書いている。「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」
人が人を信頼すると、必ずいつか裏切られる。なぜなら、人には人の信頼に応え切る誠実さと真実を初めから持ち合わせてはいないからである。クリスチャンは、唯一、十字架の主イエス、復活されたキリストの真実を一心に見つめ、目を離さないことによって、神の恵みの中に立たされ続け、救われ続けるのである。その希望は、失望には終わらないのである。