追記:
説教を語る説教者も、また、その説教を聞く会衆も、礼拝の中で語られるメッセージの中に、主イエス・キリストが命を懸けて成し遂げた十字架の御業が、立ち上がってくるかどうかを、吟味するべきである。聖書の解き明かしを通して、み言葉からキリストが立ち上がってこない説教は、結局は説教者の持論の展開でしかなく無意味である。キリストとの出会いを期待し、キリストを獲得させられることが期待されていない礼拝は、礼拝ではなく人間のお楽しみ会に等しい。説教を説教とし、礼拝を礼拝とする力は、主イエスの登場の力である。それは十字架と復活と御霊の働きである。