- したがって、新約聖書の強調点は、私たちクリスチャンが「キリストのために生きることではなく、キリストと共にある(キリストにとどまる)ということである。「キリストのために」と「キリストにある」とは全く異なる生き方をもたらす。「キリストのために」生きるということは、主が求めておられると思われることを行うことである。そのためには、聖書を読み、みこころにかなった生き方の原則を見つける。そしてその原則に従うように努力する。そのような生活をするならば、神が祝福してくださると信じる。しかし、これこそが完璧な律法主義的クリスチャンのライフスタイルなのである。というのは、神の祝福を手に入れるために、行いによって信仰の成長をはかろうとするからである。神の恵みによってではなく、律法に支配されている人生となる。神が願っておられることは、神のために、あるいはキリストのために何かをすることではなく、キリストと共にあること、キリストのうちに、キリストのことばに、キリストの愛の中にとどまることである(ヨハネ15:4~5,7, 9)。
- 聖書的原則に従って生きることは、一見良いことのように見える。しかしこれは巧妙な律法主義なのである。確かに、新約聖書には、私たちがどのように生きるべきかについての教えが書かれている。しかしそれらは従うべき宗教的規則ではなく、主が私たちを通して現わされる様々な形なのである。信仰生活とは、私たちを通して、神ご自身が現わされることである。このために、今は、キリストが私たちのうちに住まわれ、御霊の助けが備えられている。
キリストの福音に従って生きる者は、神の命令を、人が行うべき模範としてではなく、神ご自身が成し遂げてくださる恵みの御業の約束として喜びます。逆にこれを人が努力して行うべきこととしてしまう心は、福音に対して閉ざされています。教会は、今、どちらの心に…。