しかし、パウロがここで言っていることは、神ご自身の恵みと愛とご尽力によって、すなわち、聖霊の内住を通して人の内に働く、キリストの十字架と復活の力が、私たちを新しく造り変え、その結果、その人の心が「この世と調子を合わせない」ものとされ、神の御心をはっきりと知るようにされるということです。人が自分の力ではなく、神の恵みによって生きる自分を信じることで、クリスチャンは一つのからだとして集められ、結び合わされ、神の力がそのコミュニティを支配し、聖霊の力に由来する愛と赦しがお互いの必要を満たし合います。そこに教会が生まれます。
クリスチャンが、愛、赦し、善行、悔い改めなどの言葉を語るとき、それらを人の努力の結果として期待するのは、完璧な律法主義です。世の基準ではなくキリストの福音に基づいて、律法ではなく神のあわれみによって、肉ではなく霊によって、私たちがお互いに勧め合って言うならば、愛や赦しや善行や悔い改め(心の一新)とは、キリストが私たちを通して現わされる様々な聖霊の働きによる結実、私たちの行いを通して神の恵みが様々なかたちで表れる、神の出来事なのです。