上の写真二枚は、「クリスマス」、と"Christmas"というキーワードでgoogle検索をかけた時に最初に出てくる画像である。世の中では、クリスマスは、もう完全に祭典化していて、おおよそ、それ自体がキリストの福音を語っているとは言い難いものになっていると思う。
もちろん、人は、クリスマスのプレゼント交換の心と、キリストの恵みの心を重ねて、クリスマスとキリストとの関連性を主張することもできる。それは構わない。でも、私にとっては、そのような主張は、こじ付けにしか聞こえない。それで、もし教会が、教会の総意として、クリスマスには特別な集会を開き、伝道活動をしなければならないと言うのなら、それならば、「クリスマス以外の日には伝道活動をしていないのか?」という疑問を投げかけたい。
伝道とは、特定のイベントや集会では無く、あくまで、キリスト者の中に躍動する神の喜びによって支えられた、神のはたらきだと私は今回の説教を通して教えれたと思う。クリスマスイベントを通して伝道が成される可能性を否定するつもりは、全くない。また、伝道する心が、クリスマスイベントという一つの形をつくり出す可能性を否定するつもりも、全くない。しかし、それは、お盆や、お正月や、何気ない日常での普通の一日の中であっても、そこに神が働かれて伝道が成立する可能性があるという場合や、喫茶店での会話が伝道へと繋がっていくことがあるというのと全く同じである。
しかし、伝道が成立する特別な可能性を求めてクリスマスイベントを企画する、という考え方に対しては、私はその動機に関して疑問を感じる。なぜなら、伝道の可能性は、キリスト者の中に、一年中、毎日、一時も休まずに働いておられる聖霊の働きと喜びの躍動が与えて下さるものだからである。クリスマスに機会を得て、特別な伝道の可能性を探ろうというのなら、それは、ある意味、毎日の日常的な関りを通して福音を伝えなければならない方々に対して、福音伝道のチャンスをクリスマスに限定しようとすることになるのではないか?とさえ、思うのである。