聖書の豆知識:新約聖書は、原本が書かれた時から数百年に渡って、人の手で写され、回覧され、その写本が再度写され、回覧されてゆくという過程を通った。現代ではギリシャ語のもので5800程度の写本が残存する。聖書学者たちは、膨大な数に上るこれらの写本を比較照合し、最も原本に近いと考えられる記述を写本から寄せ集めて合成することで、聖書の『底本』を定めている。そのギリシャ語の『底本』の翻訳が、私たちの手元にある『新約聖書』である。新改訳聖書の中で『写本・異本では~』という注釈を見かけるのは、このためである。(例:ヨハネ8:53)
<以上>
追記:
聖書学者たちが、写本を比較照合して底本を定めるとき、例えば、同一の箇所を書き写したと思われる、内容が異なる二つの写本がある場合を考えると、『長く、冗長で、人間的な説明や解釈を施したような写本の内容は採用しない』というわかりやすい基準がある。だが、そのような基準だけで機械的に底本が決定する訳ではなく、それぞれの写本がどのように関連しているか、それぞれの写本の相違がどのような歴史的過程を通して生じてきたかなどが精査される。聖書は、その意味で、筆者の知識の範疇をはるかに超えた学問の世界における努力の結晶なのである。・・・その意味では、『聖書は神の言葉である』という一つの宣言の意味を、じっくりと考えてみる必要があるだろう。
聖書の文字としての姿は、原本の発生という点では『人間の心の吐露』であり、そして写本からの原本の逆算(底本の作成)という点では『人間の学問的努力』の結晶なのである。そして、その過程において、人間の心や行いや思惑が深くかかわっているのである。
キリスト教に批判的立場をとる人たちの中には、そのような聖書の存在にかかわっているヒューマン・ファクターを理由に、聖書は権力者が弱者を支配するために人為的に改ざんされたものであるとする意見がよくある。その批判の是非はさておき、『聖書が神の言葉である』という一言の意味は何だろうかと、きちんと考える必要はあると思う。聖書を客観的に自分の外側に存在する物体として位置づけて、客観的な権威として自分自身に、また他者にぶつけられているだけのモノなら、確かに、前述のような批判は免れない。
ここで一つの問いかけをしたい。
『聖書のみことばは、私の中で神の言葉となったか?』
確かに自分を生かす言葉を、私たちは聖書と向き合う中で聞いているだろうか。それも、人生の処世術ではなく、幸せになれる方法でもなく、根源的に自分を生かしている、創造主である神の言葉として。その言葉を聞いたとき『聖書は神の言葉です』という一言の重みは、変わってくるのではなかろうか。・・・そもそも、私たちは、聖書に客観的に権威を認めたから主イエスを信じたのではないはずだ。主イエスを信じたからこそ、書物としての『聖書』が、初めて『聖なる』書となって私たちに迫るようになったのではなかったか・・・?