人の努力は、それが神の水準に達しなければ神に認められることは決してない。神の栄光に達しない罪びとが、自分の努力によって神に喜ばれることは、決してない。それができるというのは、幼児が泥団子を作って、大人に「食べて!」と言うような児戯よりもさらに幼稚な考えである。神ご自身が御心によってお与えになる賜物の他は、人は神に喜ばれる何かを差し出すことはできない。
だからこそ、神は、聖霊を通して私たちの心を動かし、御心のままに、ことを行ってくださるのである。私たちが神に喜ばれる出来事を、神は、私たちに(要求せず)与えてくださる。神が神で在られ、神が本領を発揮してくださるとき、私たちは神に喜ばれる存在としていただけるのである。