主イエスは、私たちのために、先ずもって、弱い者で在ってくださる。神の子羊は、私たちが強くあること、罪と戦うこと、成功することを要求なさらず、むしろ、人の弱さと共に歩み、罪によって心が深く傷つく痛みを知り、自分で自分を救えない私たちに、命をかけて寄り添ってくださるお方である。この神の子羊であられる主イエス・キリストの御前では、人が人に対して努力を要求することも、人が人のために努力を差し出すことも、すべて意味を失う。そして、ただ、御父の恵みの力が、人の弱さの中に現れてくださることを願う、神を信頼する祈りが、人の心を支える望みとなる。
キリスト者が主イエスを神の子羊として信じ、キリストの体として生きるということは、先ずもって、その人が人間的な力においては無力な存在とされるということである。しかし、人は、自分の力を失うことを恐れ、無力を避けようと必死に努力する。これが信仰の戦いの本質である。