主イエスの再臨がもたらすのは、黙示録22:17、『渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。』と仰せられる神の恵みです。また、永遠の昔、創世記1:29で、『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。』と神は仰せられました。このように、神が人間を一方的に恵む現実は、神にとって、『見よ、それは極めて良かった』のです。天地創造とキリストの再臨という永遠の時空の狭間で、教会は、今を、神の恵みの中を生きます。キリストの十字架によって現わされた神の永遠の恵みから見れば、『人間が何かを正しく行わなければ救われない』と考えるのは、神の愛に飲み込まれてしまうことを拒む、不信仰なのです。
<週報からの引用終わり>
チャーチ・オブ・クライスト、あるいは、「キリストの教会」というグループは、19世紀にアメリカで発した、回復運動にルーツがあります。回復運動(レストレーションムーブメント:Restoration movement)は、教会の中には(聖書に根拠がない)伝統が蔓延してしまっていて、それがクリスチャン同士が喧嘩したり分裂したりしてしまう原因になっているので、すべての人間的な伝統を排除して白紙の状態になり、代わりに(聖書を根拠として)初代教会の伝統を現代に忠実に回復しよう、という思想に基づいています。それは、聖書を根拠と手がかりとして、信仰の源流をさかのぼり、もっとも純粋な教会の姿へと回帰してゆこうという思想でした。
これは原理的には崇高な目標でありましたが、皮肉にもそれは、本来罪びととしての絶望の中で十字架を通した神の恵みに全面的により頼むべき教会が、むしろ、人間が正しく聖書に従う行動をするということを、何にも増して優先し、追求する思想へと変化して行く結果となりました。そして、聖書を、人間が現代において認めたり模倣したりするべき諸事実の集合として解釈するようになってしまったのです。言い換えると、聖書は、人間の行いを規定する「命令」や「模範」の集合体として解釈する立場に固執してしまったのです。それは、永遠の神の力を宿している十字架事件の言葉を、人が一度認めて救いの条件を満たすような過去出来事としてしまい、その十字架によって日々心を打たれ変革されてゆくことを拒む、律法主義に落ち込むことに他なりませんでした。
人間は正しく行うことで正しい存在として認められる。
これは人間の常識です。
しかし、聖書は主イエスの十字架を通して教え、そして宣言します。
神は、正しく行う事の出来ない人間を、一方的に恵みによって正しい存在としてお認めになる。
人間の思いの中にいきるか、神の思いの中に生きるか。
それは常に問いかけられ続けている事なのだと思うのです。