イザヤ書27章12節:
『その日、
エホバはユーフラテス川から
エジプト川までの
穀物の穂を撃ち落とされる。
イスラエルの子らよ。
あなたがたは、ひとりひとり
拾い上げられる。』
神の審判が全土に下るとき、カナンの地の北から南まで、イスラエルの領土全土にわたって、主なる神の裁きが下る。しかし、その裁きの最中に、ひとつひとつ、神が目を凝らして探し出して慈悲をもって拾い上げる、残された者たちがいる。審判のさ中にあって、神の恵みによる救済の手が、差し伸べられている。暗闇の中にあって輝く、光である。
同じような、神の審判と、神の救いが、同時に地にあって実現した瞬間が、別にもある。その日、人となられた神が死んだ。その死のゆえに、全人類が裁かれ、そして死んだ、その日である。その日こそ、イエス・キリストの十字架の日である。そして、全人類が死に、全土が暗くなったその日、同時に、主なる神は、全人類の中から「一人」拾い上げられた。
「この者だけは、
私の前に正しく、死に値しない。
死んではならない。
わたしの前にあって、
生きなければならない。
なぜなら、この者は、
わたしのひとり子だからだ。」
この、主なる神のご選択と、ご決意が、全人類の中で唯一、義なるお方である、主イエスのご復活につながる。全人類の中で、最初に神の前に生きられた、初穂として、そして主イエスを信じる者たちの長兄としてのご復活である。
その時も、今も、これからも、
打ち倒された穂、一度裁かれ死んだ人から、
神が拾い上げられたのは、
過去も、現在も、未来も、
ただ一人、
主イエス・キリストのみである。
その意味では、現在地上あって、主の十字架の死によって裁かれて、死んで横たわっている全人類の誰一人として、神に拾っていただける者はいない。神に拾っていただくために、人類ができることはただ一つである。それは、父なる神に既に拾っていただいているお方につながることである。私たちは、主イエスにつながることで、神様に拾っていただけるのである;命を与えていただけるのである。自分で、いくら、拾ってもらおうと努力しても、それは無駄なのである。