大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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週報コラム(1月28日)

1/27/2018

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新約聖書で「偽善」と訳されているギリシャ語は「ヒポクリーシス」と言い、「本心と違う印象を公に作り出すこと」という意味です。パリサイ人たちは、心の中は「強奪と邪悪、汚れ」で満ちているのに、外面的に水で体を洗うことで自分を公に「正しい、清い」と印象付けているという意味で、それが 「ヒポクリーシス」だと主イエスは指摘なさったのです。神の御前にあっての自らの心の邪悪さを認めず、神の恵みによる救いを求めない態度が、ヒポクリーシスなのです。「パリサイ人の偽善」とは、パリサイ人特有の偽善のことではなく、私達一人ひとりに内在している、成長させてはならない、神に対する反抗心なのです。<週報からの引用終わり>
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追記:
​「偽善でもいいじゃん。何もしないよりもマシ」 というのは、タレントの島田紳助さんの言葉だそうである。(引用:http://www.herawata.com/entry/2017/08/10/080000)この言葉は、眼の前にある誰かの切実な必要に対して慈善活動を通して働きかけて欲しいと呼びかけている訳ですが、ここで意味されている「偽善」とは、「悪い心や動機に基づいて、善い事をする」ということです。どんな動機であろうとも、とにかく善い事をするべきだ。人を助けるべきだ。という人間のするべき行動についての原則のことを語っている訳です。

これに対して、主イエスは、むしろパリサイ人たちを批判することに依って何を意味していたかと言うと、「悪い心や動機があるのに、それを善い行いで隠そうとするのは止めよ」という、善行の停止命令であると考えられます。「善行にいそしむ前に、その動機がどこにあるのか、よくよく吟味せよ。そうしないと、神の御前にあってはその人に災いが来てしまう。」という事です。

上記の引用で、島田紳助さんは、あくまで、助けられるべき人たちに助けが成されることが大切と言っていて、助けられる人たちには良い結果がもたらされる訳ですから、それは善い事だと言えるでしょう。しかし、悪い動機で善い事をすることによって、その人の悪い心が正当化され、その人が依然として悪いままの状態にとどまってしまうとしたら、それは(善行によって助けられる人ではなく)その人本人にとっては、害悪を及ぼすことになってしまうでしょう。

主イエスは一人ひとりの神の御前にあっての心の在り方を心配し、善い心を持ってほしいと願っておられるのではないでしょうか。そのためには、時に、人は、(もしそれが偽善に基づいているなら)善行を止めなければならないのです。それは、その善行を止めることで誰かが困ってしまうかも知れないという心配を生じさせるかもしれませんが、本当に人を助けるのは神ご自身なのですから、善行の任務は、神にお任せして良い筈なのです。

そして、私達が神の御前にへりくだり、聖霊を与えられるとき、その聖霊が、私達の中に善行を生み出してゆくでしょう。その善行は、もう、私の善行ではなく、神の善行であり、それは偽善ではなく、まさしく善となるのでしょう。キリスト者は、自ら善行を行おうとする心を制して停止させて初めて善を行うこことが出来ると言えるのではないでしょうか。
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バプテスマは救われるために必要か?

1/22/2018

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保守的・原理主義的なチャーチオブクライストの教理には、人の救いはキリストを信じる信仰を持った時点ではなく、バプテスマを受けた時に初めて与えられるという考え方がある(この点については、チャーチオブクライストの名を冠する教会のそれぞれでも見解が異なる)。すなわち、水による全浸礼のバプテスマ(洗礼)を受ける瞬間その人は新しく造り変えられるのであり、そのバプテスマを正しい形式で受けないままでは、その人は救われていない;したがって、たとえばバプテスマを受けに行く途中で交通事故で亡くなった場合、その人の救いの確証は無い、という事である。そのような教理を証明する根拠としてしばしば引用されるのが、例えば、使徒行伝2:37-38である。

37:人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 38:すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 (新共同訳)


確かに、この箇所では人が神の前になすべきことはなんであるかについて、はっきりと書いてある。①悔い改めて、②洗礼(バプテスマ)を受け、③罪を赦していただくことである。したがって、悔い改めてバプテスマを受けないでは、人の罪は赦されない、したがって、バプテスマなしには人は救われない、という論理展開が成され、救いにはバプテスマが必須である、すなわち人の行いが必要である、という結論になる訳である。

しかしそのように主張し、依然として「自分は神の御前に救われるために、何かをする必要がある」と考えている人は、大切な何かを見落としている。それは、「わたしたちはどうすればよいのですか」という問いを誘発した、人間が置かれた状況についての考察と、聖書の御言葉の中への感情移入(没入)の努力である。

それは、使徒行伝2:36に対する、魂の応答である。

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(新共同訳)

悔い改めてバプテスマを受けよと命令したペテロは、自分自身を含めてすべてのユダヤ人をイスラエルの全家と呼び、そしてその民イスラエルが総体として神に反逆し続け、ついに、とうとう、神の御子イエスさえ十字架に付けて殺してしまったという驚愕の、神に対しては決して赦されない、即刻死刑判決を宣告されても一言も反論も弁証もできないような犯罪の事実を人類に突き付けているのである。

そして、その人間が如何なる弁償を行っても、罪滅ぼしをしようとしても、善行を積み重ねても、神の命令のいくつかを忠実に守り通したとしても、そのようなことでは決して拭い去れない、帳消しに等なり得ない、そのような重大極まりない罪を神の前に犯したことを知らされた人の心が刺し通され、絶望したとき、その絶望の中に初めて魂の奥底から絞り出され、いや、湧き出した悔い改めの心が、「どうしたらよいでしょうか!」という問いなのである。

つまり、この「わたしたちはどうしたらよいでしょうか」という一言は、文字通り、人が如何なる行動をすれば神に認められ救われるのか?という事を実は問題とはしていないのである。むしろ、この一言は、神の御前には何もできない、何をしても救われないという絶望の中から、神のみ名を呼び求める、神への救いの嘆願なのである。

そして、ペテロは民に応えるのである。

「だからこそ、民よ、兄弟たちよ、一緒に神の御前に悔い改めよう。そして神にバプテスマを授けて頂き、罪を赦して頂こう。なぜなら、神様はその恵みによって私達の罪を赦し、その証として聖霊をも賜って下さるのだから。神の恵みに信頼して、さぁ、今、神のみもとにに行こう!」


・・・この聖書箇所に対して、人間がどのように行動すれば救われるのかという、「人間主体」の問いかけを最初から持ち込んで解釈しようとするのは、自分自身の神の御前に在っての罪びととしての人間理解、そして人の救いが神の恵みを必要としている、いや、神の恵みによってしか救われ得ないという福音の理解が不十分であるからだと、私には思えるのである。
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週報コラム(1月21日)

1/21/2018

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■「キリストの教会」の伝統は、聖書は人が従うべき命令と模範を必ず示し、信仰とはその命令と模範を実践することである、という考えに基づいています。しかしこのアプローチは正当な知識の根拠を、人間の理性と合理性に求める哲学に基づいていて、その性質上、神の愛への感動、理性を超えて働く聖霊の力への信頼、人間の合理性では説明できない主イエスの十字架の力よりも、人の知性による論理的説得力の方が過大評価される短所があると言えます。聖書がアダムとイブの原罪を、「いのちの木」が隣にあるのに「善と悪の知識の木」を求めた心、すなわち、歴然たる神の愛よりも人間の理性と合理性に頼って神から独立しようとした心として描ていることを、私達は忘れてはならないのです。
​
<週報からの引用終わり>
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追記:
上の図は、ウエブ上で見つけた、キリストの教会(チャーチオブクライスト)の正統性を図式化したものである。正統性といっても、それはこの図を描いた人物の独善的の考えの中でしか成り立たない正統性であって、私自身が認めているものでは無い。


この図の中で、キリストの教会、すなわちチャーチオブクライストは、初代教会から分裂したローマカトリック教会から生まれ出た様々なプロテスタント教会から、19世紀中ごろから米国で始まった復興運動を通して、本当の教会を建て上げるために抜け出してきた有志によって構成されたグループであるとされる。そして、その唯一正統な「キリストの教会」のメンバーでなければ、ローマカトリックも、プロテスタントも、キリストの教会の正統な復興運動から脱落したクリスチャン・チャーチも、みんな地獄に行く(Doom)ということが主張されている。・・・とんでもない間違いである。

もちろん、すべてのチャーチオブクライストにおいてこのような間違った(かつ極端な)教理が教えられている訳では無い。しかし、聖書主義に偏り過ぎたり、自分自身の正統性を追求したりする(クリスチャンが良くやっている事)先にあるのは、このような、排他的で、攻撃的で、独善的な、しかしきわめて臆病な心理状態だということを、私達は知っておくべきだと思う。

全てのことを正しく理解し、行っているから、神に救われるという思いや自負は、逆に言えば、一つでも間違えば地獄行きなのだという恐怖の心と表裏一体なのである。
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週報コラム(1月14日)

1/13/2018

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■先日あるウェブサイトで「私が応用的な説教を棄てた理由」という記事を読みました。その記事の著者は、聖書はイエス・キリストの美しさと、神の約束の成就の良き知らせを宣言するのであり、人間が聖書をどのように人生に役立てるのかは中心的な関心事では無いと言います。また、神のみことばは、より良い人生へのアドバイスではなく、読者が神との出会いを喜ぶためのものだとも。■別の言い方をすれば、聖書のテーマは、「人が何をすれば神が喜ぶか?」という事よりも、「神を喜んでいる人は何をするか?」という事なのです。皆さんはどう思われますか?何を期待して聖書を読んで学んでいますか?<週報からの引用終わり>
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追記:
上の感想の元ネタは下の記事である。
www.preachingtoday.com/skills/2018/january/why-i-gave-up-sermon-application.html

私も、この記事の著者と同意する部分が多い。説教者として二年半あまり勤めてきたが、説教者の使命は、礼拝の場において(自分を含めた)聴衆と神様との間の出会いの出来事に携わることであって、聖書の言葉がどうやって自分の(クリスチャンとしての)人格完成に役立ってゆくのかとはあまり関係が無いと思わされる。

説教者が講壇から人生のアドバイスを垂れても仕方がないと思う。ましてや40歳そこらの若造が、人生の先輩たちに対してあれこれ諭すことなどできようはずが無い。また、説教が「聖書に従えば、私は皆さんの人生がこんな風に良くなると思います」という、説教者の独善的な善悪の判断と人生観の押し付けになってしまうとしたら、それはもう説教ではなく、根本的にはもうネタ切れの、苦し紛れの、きわめて退屈な、誰も聞きたいとなど思わない、語っている側も全然面白くない、つまらないメッセージになってしまうだろう。人間が人間に語るアドバイスは虚しいのである。

しかし、聖書の中に神様との新しい出会いを探し求めてゆくならば、そのメッセージの可能性は無限大であり、毎回の説教が新しい発見を伴う、心を鼓舞されるような、冒険となり得る。

例えば、網にかかった153匹の大きな魚の比ゆ的な意味を、聖書の読者はあれこれと考えるかも知れない。しかしそのように神が起こされる奇跡の意味の神秘性についてあれこれ悩んでいるようなとき、背後から、主イエスの御声がかかっていることに気付きたいのである。「私の所に、来なさい・おいで」という招きの言葉に耳を傾けたいのである。

何はともあれ、私は主イエスのみもとに行き、主イエスをじっと見ていたい。そして、主イエスと新しく出会いたいと思う。その出会いの出来事を、鮮やかに語ることが出来れば、それで善いのではないだろうかと、そんな風に思うのである。主イエスの下であれば、赤く、温かく光るその炭火でさえも、神の愛を鮮やかに語るからである。
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週報コラム(1月7日)

1/6/2018

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■新年明けましておめでとうと言うが、「めでたい」という言葉は、「喜ばしい。祝う価値がある」という意味だ(旺文社)。1年を無事に終えて新年を迎えることができて喜ばしい。だから「おめでとう」と言って祝うのだ。しかし、逆に、生活が色々な面で苦しい人にとって新年はおめでたくない。去年に続いて今年も同様に労苦することに何の喜びがあるだろうか。■しかし、その苦悩の現実の中に、心優しき主イエス・キリストがお立ちになる時、その人は神から、「おめでとう」という声を聞く。それは、「あなたは、わたし(神)にとって喜ばしい人。祝いたくなる存在だ」という、神からの愛と恵みの言葉。神が愛する、すべての人たちに、「あなたに、キリストの名において、おめでとう!」 <週報からの引用終わり>


追記:
夕拝での出来事だけれども、未信者のゲストの方から、こういう質問を受けた:「”アーメン”って何故いうんですか?

「アーメン」とは、「しかり」という意味である。すなわち、祈りの最後にアーメンと言うのは、祈りをリードした人の一言一言に対して、自分自身も心から同意するという意志表示である。

祈りをリードする人が、「主イエスのみ名によって祈ります。アーメン」と言う時、それは、「私は主イエスのみ名によって祈りました。同じように主イエスを信じている皆さん、私と心を一つにして、私の祈りに同意して、この祈りを皆さん一人ひとりの祈りとしてください」ということを願っている訳である。

合同礼拝での祈りにおいて「アーメン」と締めくくる祈りをする人は、自分自身が会衆全体に対して自分の祈りへの同意を求めているということを意識するべきであると思う。その場合、合同の礼拝の場においての祈りの一言一言は、あくまで、徹頭徹尾、主なる神を崇める言葉でなくてはならない訳で、その祈りが、個人的な願望や政治的な意見を吐露する言葉になってしまってはならないと思う。

​アーメン、とはそのような重みをもった言葉だということを、改めて思わされた。この質問をしてくれた青年に感謝したい。

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