昨年11月に日産会長職を解任されたカルロス・ゴーン。彼は1999年に日産の最高執行責任者として「リバイバル・プラン(復活計画)」を実行、業績を著しく向上させ、2003年までの4年間で2兆円もの巨額の借金を完済した。それは2万人以上の解雇、下請け企業の半減等、非常な痛みを伴った。主イエスの「宮きよめ」は、いわば「信仰リバイバルプラン」の幕開け。主イエスが最高権威者として、人知を超えた恵みと愛に基づいて発足させ、実行なさり、人の神に対する巨額の負債が完済されるのです。その過程で、非常な痛みを伴って排除されなければならないものがあります:人が自力で救われようとする、あらゆる正しさの自己主張です。すなわち自分については死ぬということです。<週報からの引用終わり>
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猛スピードで「あおり運転」をし、バイクに乗っていた大学生を殺害した被告人の裁判で、弁護側は「事故」だと主張します。しかし、実はそれが殺意を伴った殺人「事件」であった場合、それをあくまで「交通事故」だと言い張ることは、いかなる意味を持つでしょう。赦せない責任逃れ?遺族を踏みにじる邪悪な態度?…様々な怒りがこみ上げるでしょう。しかし神の御前ですべての人が裁きを受け、神の御子の死を引き起こす程に深い「罪」を問われたとき、その罪の事実にも関わらず、人が神に対して、「私は聖書に書いてある通りに行いましたよ!」と自信たっぷりに自負することは、神の怒りを引き起こす、人の自分勝手な自己弁護になりはしないでしょうか。
<週報からの引用終わり> クリスチャンは、「聖書は教会の絶対的な規範だ」と言うことがありますが、実際は読む人の心によって聖書の意味は異なってきます。例えば、聖書は「神を愛せよ」と言います。これを、「私は神を愛せます」という心で読む人は、御言葉の中に人間の行動の規範を見て、神を愛する努力をします。しかし同じ言葉を「私には神を愛することができない」という絶望の中から読む人は、御言葉によって裁かれ、死に渡されます。しかしその絶望の先に、神が与える復活の力に全面的に自らを明け渡す信仰の可能性が開かれます。神の御前に絶望せずには、聖書は人間の正しさの根拠として扱われるしかなく、そこには絶え間なく分裂・争い・痛みの火種がまき散らされ続けるのです。教会はまず、神の御前に絶望しなければならないのです。
<週報からの引用終わり> 昼間の空には星は一つも見当たりません。それは星々が輝きを失ったからではなく、太陽という別の光が世を照らしているからです。でも、夜となり、太陽の光が届かない場所に人が立たされると、その人の目の中に星々は輝きを取り戻します。神の力は天の星々の美しさのようです。私たちが自分を誇る「我」という太陽の光を失うとき、神の力の美しさが輝きます。その愛の光は全宇宙を満たす偉大な輝きです。心の貧しいものは幸いです。天の御国はそんな人に見いだされるからです。自分の力で輝いている者は、実は悲惨です。そのような人は天を見上げても何も見出せないからです。
<週報からの引用終わり> |
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January 2021
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