大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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制度は、人の心を変えられない

2/28/2016

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最近、
教員免許を取得しないまま、32年もの期間、
県立高校で授業を教え続けた女性教諭(?)
のことが報道された。
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160222-OYT1T50134.html

そのことについて、
テレビ番組で色々とコメントされていた。

そのコメントの一つは
『こういうことが無いように、もっと管理体制を整備して・・・』
という意見であった。
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筆者としては、この一言に、どこか、とても引っかかるものを感じた。

問題が生じたら、即座に、
制度としての管理体制を強化する!・・・と言う考え。

そういう思想で突き進んだら、
私たちの世の中は、
制度に『がんじがらめ』になって硬直して、
その硬直は人々を逆に苦しめることになるのではないか?と。

制度をいくら作っても、
その制度に価値と意義を感じて
心からその制度を守ろうとする、
人の心が伴っていなければ、
その制度は結局は問題を解決する力を発揮できない。
人を苦しみから解放できない。

制度を作るということの本質は、
「従わなければ罰するぞ!」という
束縛ではなく、
「みんなで幸せになろう!」という
心の一致の具現化であれば、素晴らしいと思う。
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私にはこの女性教諭が32年間分の給与(1億円!)を
県に返却するべきかどうかはわからない。
この問題への解決の方法を模索する立場にもない。

しかし、
問題の解決=制度の強化!
という心の構図について考えさせられた。

キリスト教会は、
 罪を犯してはならない、
 教理教条を守らなければならない
 会員登録をしなくてはならない、
というような、
様々な制度によって成り立っているわけではない。

それらの制度に心からの意味を与える、
一人ひとりが、
神に愛され、神を愛する、神を信じる 心によって
教会は成り立っているのだから。
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奉仕が教会を滅ぼす時・・・。

2/17/2016

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水曜日は、婦人会の姉妹たちとの聖書研究の日である。通読ではなく、要所要所を抑えながらの学びで、去年の6月に創世記から読み始め、今日は 第一列王記 第10章~12章 を学んだ。この箇所は、ソロモン王の栄華を極めたその姿(10章)と、それに続く
王の神の前にある堕落(11章)と、王国の分裂(12章)を書き記している。

私として特に気になったのは、12:4 である。『あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。』 これは、ソロモン王の死後、新しい支配者・後継者になろうとしていたレハブアムに対しての民イスラエルの嘆願である。これは、ソロモン王がイスラエルで行った様々な事業は、国に繁栄をもたらした半面、国民を重税と重労働によって苦しめたということである。

いや、しかし、ちょっと待て。同書 10:8 において、シェバの女王は、ソロモン王に属する民イスラエルについて、こう言っているではないか。『なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。』 と。

『しあわせ』と、『過酷な労働と重いくびき』 
その二つの現実は相容れない。いったい、ソロモン王国と、そこに住む人たちの現実に何が起こったのであろうか。

ここで一つの仮説を立てる。民イスラエルは、ソロモンが栄華を極めたその時期においても、神殿建設や繁栄する王国を支えるための様々な労働に携わり、課税されていて、ソロモン王がその晩年において突然暴君となって民を苦しめ始めたのではないという仮説だ。つまり、労働時間やその負担、課税金額が突然増加したことが原因で、民が困ってしまったのではないという仮説である。
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その仮説を立てた上で考える。なぜ、民は、かつて経験した『しあわせ』という現実が、今になって、『過酷な労働と重いくびき』という現実に変貌してし まったのであろうか。それは、10章(しあわせ)と、12章(過酷な労働と重いくびき)の間にある、11章の出来事、すなわち、ソロモン王の心変わりで ある。ソロモン王は、その晩年において、外国人の妻たちによる偶像崇拝の儀式がイスラエル国内において行われることを容認する(11:5-8)。王族に よって、公の場で、白昼堂々と偶像崇拝が行われることを、ソロモン王は許してしまったのである。 これ(偶像崇拝の許容)は、女王シェバをして、『あなた を喜ばれ、イスラエルの王座にあなたをつかせられたあなたの神、主(ヤハウェ)はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられる・・・』と言わしめた、ソロモン王とイスラエル王国に満ち溢れていた、神である主(唯一のヤハウェ)への賛美と、感謝と、神にある喜びを忘れ、王と民の心が、神に対して背を向けてしまったということである。

神 である主(ヤハウェ)が、知恵に満ちた指導者と、国家の繁栄と、周辺諸国との平安を、民イスラエルに恵みによって与えられているという現実。 その現実の中で、指導者に仕え、積極的な労働と献金を通して自分のコミュニティを支えてゆくという生き方。それは、王と、民と、神が、みな心を一つにしてい る『よろこび』。 ・・・であったのにも関わらず、王と民の心が神から離れた瞬間、かつて喜びであった様々な行いは、一転して、『過酷な労働と重いく びき』となってしまった。
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現在伝道者として教会で働いている筆者にも、会社や大学勤務の経験がある。その時の経験から言うことであるが、私は自分の労働を、意味のある、有意義な、誰かの喜びにつながる結果を生み出す行為と認識しているときは、その労働に情熱と喜びをもって取り組み、それを『過酷な労働と重いくびき』とは感じない。しかし、自分の仕事が、自分や自分に関わる人たちの人生を豊かにするということが目的ではなく、ただ、何らかのプログラム(事業)の維持や、所属する組織の金銭的利益のためだと(雇い主側によって)位置づけられた瞬間、そう、その瞬間、その仕事に対するやる気、使命感、創造力、工夫する努力、向上心など、そういった、私を内側から支えていた心の炎が、一気に消し飛んだ。その心の支えを失った労働者としての私は、その労働を、過酷で、重く、悲惨な現実として感じるようになってしまったという経験が実際にある。・・・同じような心の変化が、民イスラエルに、国家レベルで起こったのではなかろうか。
民イスラエルが、レハブアムの前に、自らが置かれた現実を、『過酷で重い』と感じていたのは、労働や税金の絶対量が増加したからではないと思う。その苦しみの現実は、民イスラエルの心の中で、自分たちの労働や献金が、喜びにつながる積極的な意味を失ってしまったことに原因があったのではなかろうか。その苦しく消極的な現実は、傷つき衰えた暗い心を生み、自分たちの犠牲は不当な要求に基づいているという被害意識を生じさえ、そして、指導者に対するフラストレーションと、そのフラストレーションを人間的に解決できない指導者に反逆する行為として、表面化・具体化する。その結果、イスラエルは南北王朝に分裂し、そしてその分裂は、国力の減少と不安定化を生み、その結果、イスラエルは、ソロモンの死後500年後には、バビロニア帝国の攻撃によって事実上滅亡する。

・・・ソロモン王の時代にその栄華を極めた古代国家イスラエルは、滅びた。
その滅びは、本質的には、
外国の攻撃によってでもなく、
飢饉によってでもなく、
自然災害によってでもなく、
疫病によってでもなかった。

その滅びは、
民の心が神から離れた結果として生じた、
神にある平安の消失、
心の喜びの消失、
そしてその変わりに発生した、
人間的フラストレーションの蓄積による、
内部分裂が原因だったのである。


現代において神の民として自らを理解するキリスト教会も、まったく同じ『滅びの因子』と常に直面しているのではなかろうか。それは、自分たちの奉仕や、献金や、礼拝や、聖書の学びや、祈りや、その他諸々の行いの数々が、その動機、心のレベルにおいて、何を目指しているかについての問題である。神様への感謝、神様にある喜び、神様が愛された人達に喜びを与える喜び、・・・愛に直結するものではなく、むしろ、伝統の維持、教会の資金的運営、会員人数の増加、事業の拡大を目標とするものとなってしまったら、その瞬間、そう、その『神様にある喜びから心が離れた』瞬間、キリスト者としてのすべての行いは、『過酷な労働、重いくびき』となってしまうのではなかろうか。その過酷さと苦しさは、教会の内部で人々を苦しめ、そしてその苦しみは、やがて、分裂となり、分裂した教会は、滅びてしまうのではなかろうか。
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ソロモン王とイスラエルの物語から学ぶなら、
教会が『死守』せねばならないのは、

神様の恵みによって与えられる平安の中に生き、
神様にあっての『心の喜び』ゆえにすべてのことを行う、
神様と心を一ついした信仰ではないだろうか。


その喜びと信仰を奪い、滅ぼそうとするモノ。
そのようなモノに心を傾けてゆくこと。
それが偶像崇拝なのではなかろうか。
その偶像崇拝が取り去られないまま、
教会生活が続けられる先にあるのは、
滅びである。

たとえ『奉仕』であっても。
いや、個々に犠牲と労働を要求する奉仕こそ、
そこに信仰と神様の喜びと平安が無ければ、
信仰者の心と教会を滅ぼす何かに
豹変するのではなかろうか。
・・・いや、豹変するという前提で考えるべきだと思う。


教会にあって『奉仕』は決して強制されるべきではない。
喜びをもって協力する奉仕者がいないことが原因で
成り立たない事業があるなら、
まず考えるべきは、奉仕者の募集ではなく、
事業や活動の縮小、
あるいは閉鎖だと、私は思う。

それは痛いことかもしれないが、
神様にある喜びを奪われるよりは、
はるかに賢明な選択である。
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やってしまった。

2/14/2016

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ダンッ! 
私の固く握られたこぶしは
机の上に叩き付けられた。

時間は夜9時。
特別なイベントを催した後、
事務作業の遅れを取り戻そうと
疲れていたときに、
さらに仕事が増えるような連絡が入る。

落ち着いて考えれば、
本当に些細なことなのに、
その時の私は、
『怒った』のである。

その怒りが、
自分だけの事であり、
周りに誰も居合わせなかったことが
本当に幸いであった。

神様、怒ってしまってごめんなさい。
すみませんでしたと謝った。

誰か、
愛する人のために感じる怒りは良い。

しかし、
自分の自己中心的な怒りは、
まことに後味がわるいものである。
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人間は、
ストレスの下にあり、
これに疲労が重なることによって、
きわめて自己中心的な考えに
落ち込んで行く。

そこには怒りが燃え上がり、
愛が吹き飛ばされてしまう。

きちんと休養を取り、
無理をし過ぎないことは、
自分自身と、
他者に対する、
愛の行為なのだと
言えるのかも知れない。

安息日は、
やはり、
必要なものなのだろう。
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休ことも、
また仕事なのだと
思わされた一日であった。
:D
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み言葉が語るとき

2/13/2016

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筆者は毎月2回(隔週で)
家庭集会に出席している。
この家庭集会は通常5~6名。
イザヤ書を読み進み、
現在、第30章、折り返し点目前である。
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複数の者たちが共に聖書を学ぶことには
大きな収穫があると思う。

これは、牧師、伝道者、宣教師、教師などが
一人で聖書を学び、
その学びの結果を一方的に『講師』から『生徒』
へと伝達する学び方とはかなり違う。

それは、
お互いに教え合い、
お互いに学び合うからだ。


それぞれの感ずる疑問の中に、
真理を見出す手がかりがあり、
それぞれの語る感想の中に、
霊的な養いの言葉が含まれている。

それは、
信仰暦の長さによらず、
皆が持ち寄り、
皆が共有できる、
教会の財産である。

教会でフルタイムで働く筆者にとっては、
このような養いの場は
貴重なものだと感じた。
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伝道者や牧師と言った、
教会でフルタイムで仕えている者たちは、
しばしば孤独になる。

会衆は、牧師を「教える」立場に据え置き、
その言葉を聞こうとする。
牧師もまた、その期待に応えようとする。
それが間違っているわけではない。

しかし、双方のその立場取りによって、
牧師自身が「教えられる」ことが
無くなってしまうのであれば、
それは問題ではなかろうか。

牧師を「教える」立場に上げ、
「教えられる」立場から下ろしてしまうと、
牧師は孤独と闘い、
その戦いが誇りとなり、
その誇りが傲慢となり、
その傲慢が独裁を生み、
その独裁が硬直へとつながる
ことがあるのではなかろうか。
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その硬直した心にあっては、
牧師も、教会も、共に、
自由人としての喜びではなく、
奴隷としての恐怖に陥ってゆくのではなかろうか。
盲人が盲人を導く・・・共倒れである。

牧師は、
自身が教会の一信徒であることを忘れてはならない。

教会も、
牧師を孤独な信仰の戦士として奉ってはならない。

頭は一つ。
キリスト者はすべて、
からだの器官なのだから。
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今日もまた、日は上る。

2/3/2016

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毎週火曜日に早朝祈祷会がある。
6:30AMからの開始。
眠いし、
寒いし、
外はまだ暗い。

共にお祈りをしている中でふと気づくと
外では日が昇っていた。
建物の間に、
日光が差し込んでいた。

毎日、日は上り、そして沈む。
その繰り返しの中で、
毎年、春夏秋冬、季節は巡る。

私たちは
その規則正しい宇宙的な天体の動きの中で、
来年があるということを当然のことのように思って
計画を立て、
季節が巡ることを当然のことのように受け入れて
種をまき、
日がまた上ることを当然のことのように信じて
床につく。

その信頼感は、
人類が生まれてからこの方、
「自然」は我らを裏切らないと、
思っているからではなかろうか。
その信頼感は、
「摂理」という言葉ととして現されることもあるだろう。

・・・父なる神様の愛も、
同じように、
キリスト者にとっては、
暖かい陽の光、
私たちのいのちを支える、揺るぎないモノ、
疑いの余地なく必ずそこにあり、
心を照らすモノ。

その愛を、私はどこか、
当然のことのように信じている。
しかし、その当然さゆえに、
人が地球の自転や公転を感じられないように、
私は神の愛に対してきわめて鈍感だ。
しかし、それゆえに、
神の愛は揺るがない。

私が太陽を止めることができないように、
季節を止められないように、
私にとっての神の愛も、
私には止められないからだ。
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    教会のフルタイム 伝道者。

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