大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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週報コラム(3月11日)

2/27/2018

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​伝道者メモ:「アーメン」について(三回シリーズ、最終回)
合同の礼拝の場における祈りは、会衆全体が最後に「しかり・その通りになるように」と宣言できる言葉でなければならないと先週書きました。すべての人が「アーメン」と言える祈りの言葉とは、神の御前にあっての人類の切実な求めに基づくものです。個人の願望の実現ではなく、神の御支配が世を覆って下さるようにと主イエスの臨在を願う祈りです。合同の礼拝の祈りとは、その礼拝の場に、主イエスが登場して下さることを切に願う祈りです。それが会衆全体の願いでなければならないのです。「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る』 アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン」 黙示録 22:20-21主イエスとの出会いを真剣に求めること。それが祈りであり、礼拝なのです。
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週報コラム(3月4日)

2/27/2018

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​伝道者メモ:「アーメン」について(三回シリーズ、第二回)
祈りの最後に必ず言う「アーメン」とは、教会に集う神の子どもたちの、神の御前にあっての精神の一致の宣言だということを先週書きました。だとすると、会衆の前に代表として立って祈りを捧げる人は、その祈りの言葉すべてに対して会衆全体が必ず心から神の御前にあって合意できることを祈らなければなりません。例えば、合同の礼拝の場で自分が支持する政治家が当選するようにと祈るのは論外です。言い換えると、祈りとは、すべてのクリスチャンが、個人や教派や教団を超えて共通して信じている、神様の御姿の栄光を現わす言葉でなければならないのです。それは如何なる祈りなのでしょうか・・・。
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週報コラム(2月25日)

2/27/2018

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​伝道者メモ:「アーメン」について(三回シリーズ、第一回)
クリスチャンは、なぜお祈りの最後に「アーメン」と言うのでしょうか。アーメンとは、「しかり」、あるいは「その通りになるように」という意味です。つまり、二人だけの祈祷会でも、何十人も集まる合同の礼拝の場でも、祈りの最後に「アーメン」と言うことは、その祈りを捧げた人が会衆全員に対して「皆さん、そうですよね?」と問いかけ、そして会衆全体が「はい。その通りです!」と神の御前に一斉に合意することを意味するのです。「アーメン」とは、「皆で一緒に神の御前に出て、心を一つにして私たちは祈ります・祈りました。」という、教会の意識と言葉の一致の宣言なのです。
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イエス様は、「吉野家」と「すき屋」、どちらを好まれるだろうか。

2/20/2018

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今回は緩急話題を一つ。
タイトルを見て、なんのこっちゃ?と思ってくれたら幸いです。説明しますので、興味のある方は、以下をお読みください。

アメリカには、バンパーステッカー(Bumper Stickers)というものが広く売られています。自分の宗教や政治的な意見を象徴する長方形のステッカー(マグネット式ではがせるものもある)を、自分が運転する車のバンパー部分に張り付けます。Google で画像検索をかけると、色々出てきますが、例えば、下の写真のようなものが見つかります。
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一枚目は、こちら。ヒラリー・クリントンさんを2016年の選挙で大統領に!と言いつつ、さらにその8年の任期が終わった後は、オバマ前大統領の妻のミシェル・オバマさんを大統領に!という、自分が政治的に誰を支持しているかを示すバンパーステッカー。民主党支持者なのか、それとも、米国史上初の女性の大統領を切望しているのか、それはちょっとわからないですが。

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二番目は、こちら。ちょっと強烈です。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の宗教シンボルをアルファベットの文字になぞらえて”toxic(毒性あり)” と書く事で「宗教は毒だ」と主張するもの。無神論者や、対立ばかりして戦争さえ引き起こすものとして宗教に幻滅している人が好んで車に張るかも知れません。

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三番目のこちらは、ちょっと謎。
「イエスならきっとウィンカーを出したはずさ!」と言うもの。
・・・​このバンパーステッカーは何を言おうとしているのでしょう。

一つの可能性としては、ウィンカーを出すかどうかということみたいに、何でもかんでも W.W.J.D? 英語にすると、What Would Jesus Do? すなわち、「こんな時イエス様ならどうするだろうか?」と問いかけているクリスチャンに対する揶揄あるいは自虐ネタかも知れません。



W.W.J.D.の本当の意味とは何だろう。
私は、アメリカに住んでいた時は頻繁に、また日本のクリスチャンの仲間たちの間でたま~に、この「W.W.J.D.」というフレーズが使われているのを耳にして来ました。その一言は、一見するとその人が、いつ、どんな時でも、どんなことについてでも、常に主イエスを模倣して、主イエスに従おうとして一所懸命になっているような印象を与えます。「自分は信仰深く、敬虔な信仰者だ。神の導きに従って正しいことを選択したのだ!」という理想のイメージが、他者に対して、いえ、と言うよりむしろ、誰よりもその本人の心の中で、描かれてゆきます。

しかし、その「信仰深い自分の姿」というのは、実は幻想なのだと私は思うのです。いや、最悪の場合、その自分の理想の姿は偶像になるのです。その、人間が自分の心の中で描いた、「善と悪の知識」に基づく「自分は善でありたい・善である・悪でありたくない・悪ではない」というイメージの中で、人の魂(Soul: たましい)と心が、拘束され、疲れ果て、傷ついているとさえ、私は思うのです。なぜなら、W.W.J.D?「イエス様ならどうするだろう?」 と問う事は、本質的には、自らの主観の中だけで成り立っている思考だからであり、そこからは本当のいのちの与え主である神の聖霊が締め出されてしまっているからです。

さて、英語の文法の話ですが、W.W.J.D? の W.D? は "would do?" の頭文字で、これは架空の話をする用法であって、「こんなとき、もしイエス様だったらどうするだろうな~?」という意味です(参考記事)。それは、「これこれ、こういう時には、イエスは、これこれ、こういうことをなさった」という事例としての具体的な聖書の知識に基づいて、主イエスのご行動を模倣としようとする問いかけではないのです。むしろ、それは、あくまで、人間が直面する様々な問題や疑問の中で、主イエスの御行動を人間の側で主観的に、想像的に、そして応用的に描こうとしているのです。

そのように、W.W.J.D?: What would Jesus do? 「イエス様ならこんな時どうするだろう?」 と問いかけることは、その英語のフレーズの文法的な意味からしても、結局は、人が心の中で悩むとき、その人が、自分の心の中で主観的に育まれている(形成されている)「主イエスのイメージ」と自分自身の心の思いとを対話させているに過ぎないという事は、きちんと理解・自覚されなければならないと思うのです。その意味では、W.W.J.D? と問いかけることによって得た決断や導きというものは、その人の心の中で認識された問題に対する、その人の心の中で生成された決断と導きであって、それゆえに、それは神ご自身が命令された、神ご自身の御心とは、本質的に異なるものだという事になります。

言い換えると、W.W.J.D? 「イエス様ならどうするだろう?」という問いは、本質的には W.S.I.D? : What should I do? 「私はどうすればよいのだろう?」 という人間の内的な自己に対する問いに、その人本人が、これまた内的に自己の心の中で解答を求め、内的に納得しているのであって、自分の存在の外に居られる父なる神の御名を呼び求めつつ、外から自分を救いに来てくださった主イエスを信頼する信仰に立つこととは、どこか異質なものなのだと結論せざるを得ないのだと、思うのです。

​

W.W.J.D. よりも、W.D.J.D.

私が伝道者(牧師)として最近思わされているのは、言ってみると、神様が人間に求めておられるのは、人がいつもW.W.J.D? と問いかけて、常に自分を監視しながら、自分の行動を(イエス様にならって)正しくしてゆこうとする努力では無いという事です。言い換えると、神様は、クリスチャンが牛丼を食べに吉野家に行こうが、すき屋に行こうが、そんなことには関心は無いであろう、という事です。むしろ、人間が神様の御前に努力して考えるべきことは、一心に、W.D.J.D? What did Jesus do? 「主イエスは、何をなさったか」ということだと思うのです。そこにこそ、私達が毎日の生活の中で規範とするべき主イエスの御姿が現れているからです。

最も端的で、そして劇的な、私たちが見上げて心に刻み付けるべき主イエスが実際になさったご行動とは、主イエスの十字架での死と、そして復活です。ここに、私達の模範があるのです。使徒パウロも、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ書2:29-20)と書いている通りです。

私達が主イエスを信じた時に、私達もキリストと一緒に十字架に付けられたという事は何を意味するのでしょうか。それは私たちが、今、人間としてはまさに「死人」であるという事です。そして、死人は、「こんな時どうするべきだろうか?」などと問いません。なぜなら、「自分は、どうするべきだろう?」と問うことは、その人が心の中で、「自分には何かが出来るのだ!」と、自分の力で成し遂げるとが出来ると思っているその何かに、神の御前にあっての価値があると思っているからに他ならないからです。

しかし、主イエスの十字架が示すのは、神の御前に無価値なものとして捨てられた、人間の死人としての姿なのです。「わが神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と、神の御子をして言わしめたほどの、重大な事件がそこに起きていたのです。それは、人間が、自分の行いについては、神の御前にあっては死人となったという劇的な出来事なのです。

そんな「死人」でしかない私達が、「こんな時イエス様ならどうするだろう」と問う事が神様の御前に何か意味を持ち得るとしたら、それは、「私の内に生きておられるキリスト(すなわち聖霊)は、一体何をなさるおつもりなのだろうか?」という、人間としての自分が描く想像や予想をはるかに超えて働く神様の御業と御心への、わくわくするような期待感や、はつらつとした希望のことを言うのです。すなわち、自分の力の完全な放棄・無力化の先にしか見出されることの無い、神の絶大な恵みの御力への完全な依存と信頼を意味しなければならないのです。

その意味では、厳しいですが、人が W.W.J.D?「イエス様はこんな時どうするだろう?」と問う時、それが例えば:
 車を運転するときにウィンカーを点けるか、点けないか、
 牛丼は吉野家か、すき屋か
 自分は献金するべきか・しないか、
 献身するべきか・しなか、
 結婚するべきか、しない方が良いか
 教会に行くべきか、行かない方が良いか、などなど、
そういう人間の行動の良し悪しや正否についての解答を求めているなら、本質的には依然として結局は What should I do? 「私はどうしたらいいんだろう?」と問い続けているのであり、それは、「私の自力による判断や決断に未だに神の御前に積極的な意味があるのだ!」と信じている心です。そのような自力に頼む心は、パウロのように「私はキリストと共に十字架に付けられて死んだ」とは決して信じようとしていない、自分がもうキリストにあっては死人に等しいのだということを信じようとしないような心がそこにあるのです。

そして、もし人が、パウロのように、自分は既に一度、神様の御前には死人になったと本当に信じるなら、その人の心は、「自分がどうあるべきか」とか、「自分はどうあらざるべきか」という「自分自身の姿」に対する一切の理想や落胆から解放されているはずなのです。そして、そんな死人をさえ生かして下さるような、いや、死人をこそご自分の恵みの力を注ぐことに依って生かして下さるような、神の恵みの力、キリストを復活させた神の愛の力に依存するようになるのです。すなわち、内在の聖霊の働きに自らの運命を全面的にゆだねようとする心を育まれてゆくのです。そのように聖霊に拠り頼んで信頼する信仰者の口からは、もう、W.W.J.D? という問いは意味を失い、代わって、ひたすら、W.D.J.D? すなわち、父なる神が主イエスキリストを通して、どれほど大いなることを私にしてくださったか!という感謝と讃美へと関心が傾き、そして集中してゆくでしょう。

もし私達が、自分自身の力によって信仰を素晴らしくしようとしたり、その過程で、W.W.J.D?と問いかけることをやめられないのであれば、もしかすると、それは、自分の心の中で、神様の、神様にしかお与えになることが出来ない、素晴らしい救いと導きの十全性を、自らあえて損なうような不信仰に陥っているのだとさえ言っても過言ではないかも知れません。その心は、例えば、「
盗むべきか、盗んではいけないか」、「姦淫するべきか、してはならないか」 というような、律法によって明確に解答が与えられている事でさえ、人が自分の心の中で主観的に善悪の答えを出してしまおうとしているような心と、実は同質なのかも知れません。

クリスチャンが「自分自身の素晴らしい信仰者としての輝かしい姿」を思い描き、その理想に邁進しようとするのは、実は偶像崇拝になりかねないのです。その偶像により、神の恵みに溢れた愛、すなわち聖霊の働きが、心から締め出されてしまうのです。その失敗は、かつて主イエスに反抗したパリサイ人たちの姿が、はっきりと物語っています。神を愛そうと願うクリスチャンにとって、神の愛を自ら締め出してしまうような事をしてしまうのは、苦痛であり、不幸なことで、何の益もありません。

偶像崇拝は、神に愛されるために創造された私達を苦しめるものなのです。W.W.J.D? イエス様ならこんな時どうするかと問い続ける中で、心のが窮屈になり、ピリピリしたり、失敗を恐れて怖くなったり、イライラしたり、喜びが無くなったりすることに気付いたら、W.D.J.D. 主イエスは私のために何をしてくださったか?と、視点を変えてみる必用があるかも知れません。
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週報コラム(2月18日)

2/18/2018

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​■「パラダイム:Paradigm」とは、「それと知らずに私たちの思考や行動に影響を与える枠組み」(引用元)の事です。例えば、私達は小学校の時から「正解は一つだけ」と教えられていますが、それは一つの「パラダイム」です。このパラダイムに影響され、私達は誰かを「あなたは間違っている」と否定したり、逆に、「あの人はいつも正しい」と妄信してしまったりします。■誰かと議論を繰り返しても一向に歩み寄れないときや中々仲直りできないようなとき、それは、「正解は一つだけ」というパラダイムが問題なのかもしれません。そんなとき必要なのは、「正解は一つだけでは無い」と考えること。つまり、パラダイムを変えてみる事なのです。パラダイムを変えることで、自分の目の前の問題の解決の可能性が一気に開くことがあるのです。
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​http://myregenmed.com/creative-thinking-how-to-think-outside-the-box/
追記:
既存の概念に捕らわれずに自由・創造的に物事を考えようということを、英語では、"Let us think outside the box" と言います。物事は「こうあらなければならない」「こうあるべきだ」と思い込んでいることを明るみに出し、あえてその枠組みの外に出て考えてみる事で、行き詰まった思考の堂々巡りの中で苦しみの中に、新しい解決の光が差し込むことも、あり得る訳です。

クリスチャンはと言うと、私達は常々「聖書が規範である」と主張し、自分たちの教えが聖書の中にあることを根拠に正統性を主張したり、自分の行いが神の前に喜ばれていると主張したり、あるいは悪い行いが裁かれると恐れたりします。

そのように、クリスチャンは、「神は私の行いの善悪をご覧になって、その価値を評価したり、その罪を裁いたりする」という一つの箱の中に、心を閉じこめてしまっている面があると思うのです。そして、そのその箱、あるいは「檻(おり)」の中から出ようとしないのです。

しかし、聖書は、その「檻」を木っ端みじんにしてしまった主イエスの十字架と復活を宣言します。すべての人間的な画策、論理、善行あるいは悪行、つまりは人の実存すべてが死に渡され、しかし神の恵みによってのみ生かされる新しい「いのち」を輝かせます。

​私達は、自分たちで自分たちを囲い込んでしまったこの箱の中を出ても善いのです。出たいのです。出して頂きたいのです。主イエスよ、私達の魂を、解放してください、と祈らずにはいられないのです。
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週報コラム(2月11日)

2/9/2018

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モルモン教は “正しい神権の権能を授けられている人“が執行する”全浸礼“によるバプテスマの儀式を受けなければ人は救われないと教えます(引用)。このように救いの条件を狭く厳密に規定することで、人は、「正しいことを行って救われた」と確信できる反面、「モルモン教会を出たらもう救われない」という偏狭な意識を生み出し、キリストを通した神の絶大な恵みから信仰が離反してゆきます。これはしかし、すべての人に内在している ”自分で自分を安心させようとする心“ が原因であり、モルモン教だけの問題では決して無く、私達も同じように考えていないかどうか警戒しなければならないのです。
<週報からの引用終わり>
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週報コラム(2月4日)

2/2/2018

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■人は、「自分は誰かを喜ばせることが出来る」と信じています。だから友人の誕生日にはプレゼントを、結婚記念日には妻に花束を贈ります。しかし、そのような贈り物を受け取った人が笑顔を見せても、心から喜んでいるかどうかは本人も実はわかりません。人は他者の心はおろか自分の心さえ良くわかっていないからです。■神は心を見るが、人は外見しか見えません。そんな人間が、「私は神を喜ばせることが出来る」と、まるで神の心をさえ見抜いているようなことを言い、神の御前に善行を捧げようとするのは、果たして神への従順なのか、それとも、見えないものを見えると言い張る傲慢なのか…
<週報からの引用終わり>
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追記:
上に、「人は誰か別の人を喜ばせることが出来ると信じている」と書いた。それは、人が人を喜ばせる事なんかできないと言いたいわけでは無く、ただ、自分が誰かを喜ばせることが出来たと思ったとしても、それは、自分の思い込みかも知れないし、結局は、自分がそうできたと信じているからそうなのであって、相手の心の喜びについて断定などできないという事である。相手は本当に喜んでいるかも知れないし、喜んでいるふりをしているだけかもしれない。その喜んでいるふりをしている本人も、自分がそういう「ふり」をしている事さえ気づいていないかも知れない・・・そういう事である。

神を心から喜ばせるには、神の心を理解しなければならない。神を「真に」喜ばせるには、神の心を「まことに」理解しなければならない。その意味で、人間が自信満々で「私は神を喜ばせた」と言うのは、「私は神の心を理解した!」と豪語しているのである。本当に神を喜ばせることがお出来になるお方は、神ご本人だけである。人間が神を喜ばせることが出来たとしたら、それは神ご本人の御業がその人の中に働き、神ご本人の御業がその人の行動となった場合だけである。

それは聖霊の働きであり、人の働きでは無い。

人は、むやみやたらに、「神の御心に沿って~をした」、とか、「神を喜ばせるために~をするべきだ」とか、言うべきではない。そういう風に、自分や他者の行動の良し悪しを論ずるために、神の御名をめったやたらに引用するべきではないのである。

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