聖書に「死者の復活」の概念が最初に出現するのはダニエル書12:3だと言われている。ダニエル書はモーセの時代のおよそ1000年後に書かれたので、モーセ五書のみに権威を認めたサドカイ派は復活を全面否定した。しかし、死者の復活とは、原理的には、人間の死の状態の中に神が霊的な命を吹き込むことによって人が生きるものとなる現象である。その意味では、復活は天地創造の時に既に起こっている。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7) そして、これと同じように、主イエスの十字架と復活を通して神の新しい創造の出来事が私たちに再度もたらされたのである。復活を信じるとは、神の恵みを信じることである。<週報からの引用終わり>
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金(カネ)には実体がない。人は労働の対価として金をもらい、その金を、自分が必要としている物と交換する。金は等価交換の道具に過ぎない。神が創造した自然界にあふれる力が、すべての人々のすべての必要を十分に満たしていた天地創造の当初、金は存在せず必要もなかった。神が無償で人を愛し養うお方だからである。しかし、現代の世の支配者たちは金を発行し続けることで、人々が自力で自立し、人間同士の等価交換によって生き、自分の力に頼る人生の仕組みを維持し続けている。金とは、ある意味、神不在の世界の仕組みが生み出した道具だと言えるのではないか。だとすると、神のために金をどう使おうかと思い悩むことで、逆に神から心が離れてしまうことがあっても不思議ではない。<週報からの引用終わり>
![]() 「礎石」とは、一般には建物の柱の下に据える土台のことだ。しかし、ルカ20:18に書かれている「礎の石」(新改訳)とは建物の土台の位置と方向を決めるために最初に据えられる基準の石のことである。新共同訳は「隅の親石」と訳す。神が据える基準は、主イエスの十字架と復活である。すなわち、人の無力の中に働く神の復活の力に頼る信仰である。クリスチャンは罪びとであるから、本能的にこの神の基準を拒絶する。その基準から外れた自己保身の精神から教会形成、聖書解釈、礼拝、発言を行うことで、人は良かれと思って努力を続けてむしろ神から遠ざかる。この不信仰から脱出する力は人には無い。唯一、キリストの十字架の死が、人をこの不信仰から解放する。教会を建てるのは神である。教会は聖霊の宮である。 車の運転に免許は絶対に必要か?と聞かれれば、答えは「いいえ」だ。
例えば、誰も出入りしない私有地内での運転には免許は必要ない。 「バプテスマは救いに絶対に必要か?」と聞かれれば、伝道者の答えは「いいえ」である。 他者が踏み込めない神様と私という個人的関係の中では、 人はキリストを信じることで救われ、 バプテスマの有無は問題ではない。 しかし信者は、 自分が唯一キリストを信じて救われたことを バプテスマによって公に示し、 キリスト者の共同体の一員として、 同胞とともに愛し愛される生涯に入る。 キリストを信じてもバプテスマを受けない人は、 信仰生活を未だ孤独に歩んでいるのであり、 それは不健全な状態であると言わざるを得ない。 その意味でキリスト者とされた者は、 必ずバプテスマを受けるべきである。 <週報からの引用終わり> |
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January 2021
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