大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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週報コラム(3月26日)

3/26/2017

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「こんなにりっぱな信仰は見たことが無い」という主イエスの言葉の意味は何だろう。例えばオリンピックの体操競技で誰かが非常に高い難易度の技を史上初めて成功させた時に、審査員が「これは見たことが無い!」と驚くなら、それはその選手個人に対する絶賛である。しかし、子供体操教室で、生徒が今まで出来なかった簡単な宙返りを成功させたとき、コーチがそれを見て「みんな、これは今まで見たことが無かったよ!」と言う場合、それはその子供個人の技術に対する絶賛だろうか。・・・そうでは無く、その言葉には、「みんなも、きっとできるよ!できるようになって欲しい!」という、そこに集う生徒たちを励まして成長を促そうとするコーチの心の願いが込められているのではないだろうか。ルカ7:9は、単に百人隊長の信仰を絶賛する言葉では無く、教会への主イエスの心の願いなのではないだろうか。
<週報からの引用おわり>

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追記:
ルカ7:9の主イエスの言葉は、今までは、イエス様が百人隊長の信仰のすばらしさを称賛しつつ、イスラエルの群衆に対しては、「それにくらべてお前たちは何だ!」と怒っておられることとしてしか理解していなかった。でも、上のたとえを考えながらだと、以前の理解が、実は、なんというか、カッコつけと言うか、傲慢と言うか、どこか現実離れした絵に描いた餅のようであったことを思う。

主イエスが私たちに百人隊長のような素晴らしい信仰を持て!と求めておられるとしたら、それは、まるで、私たちにオリンピック選手のように素晴らしい演技ができるようになれ!と求めておられるようなものだ。

そう考えるのは、実は、エリート主義というか、どこか自分自身の人間としての現実を直視していない、夢を見ている解釈のように思える。

信仰者として素晴らしい人間になりたい! という、どこか、自分中心な、ナルシストの考え・・・。

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だって、私たちは、神様の前にあっては、皆こどもなのだから。こどものようにならなければ神の国に入れないのだから。こどもとして体操の演技を褒められるとしたら、それはむしろ、子供体操教室で先生から褒めてもらうようなことだと思うのだ。

オリンピック選手になって、自分が信仰の勇者として脚光を浴びなくたっていい。むしろ、本当に信仰とは何かということを知っておられ、人に教えることがお出来になる主イエスの元にあって、教えられ続けていたい。それで良いじゃないかと思う。

ルカ7:9を、自分の信仰の理想として模倣しようとするのは結構だが、その模倣が一体だれを見ての模倣なのか。それは本人がしっかりと吟味しなくてはならない。自分が優れたものとなりたいという自分の素晴らしい姿をイメージした願望なのか、それとも、主イエスこそ優れたものだということを見続けたいと願う、主イエスを思う模倣なのか。

主イエスは、神の憐みと恵みを私たちに教えるために、お語りになった。それを理解し続けたいと思う。
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週報コラム(3月12日)

3/12/2017

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『裁いてはならない』 裁くという言葉それ自体は「AとBとを区別する」という意味である。法廷においては有罪と無罪を区別する裁きが行われる。主イエスはそのように善と悪とを区別することをさえ「裁くな!」と禁止しておられるのでは無い。マタイ18:15-17において主イエスは、罪を犯した者を責め、頑なに悔い改めを拒む者は教会から追放せざるを得ないことを語っておられる。しかし同時に、主イエスは、その裁きの中にあっては、7を70倍するまで罪を犯した人を赦そうとする慈悲を示すことをも命令しておられる。慈愛の中での裁きは人を神に立ち返らせる。逆に、人を罪に定めることを目的とする無慈悲な裁きは人を滅ぼす。主イエスが『裁いてはならない』と禁止される裁きは、後者である。
<週報からの引用終わり>
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追記:
ルカの福音書第6章の『裁いてはならない』という教えは、気を付けないと色々な場面で曲解されてしまうかもしれません。もちろん、私自身が曲解していないとも限らないことを前もって認めた上での考えですが、主イエスが『裁いてはいけない』と教えられたその目的は、『裁く』という行為それ自体が無意味で、必要なく、そして悪い事だと決めつけることでは決して無いと思うのです。

裁きとは、人間が罪びとである以上、その罪が時に明らかにされて、悔い改めへと人が導かれるために通らなければならない一つの過程として教会の中で必要なことだと思う。罪は罪だから。しかし、その裁きの目的がきちんと神様の御前にあって整理され、理解されていないと、無慈悲な裁きが横行したり、逆に、正しい裁きが押しつぶされたりする問題が生じるのではないだろうか。

例えば、『裁かなくてはならない!』という観念から、罪を犯した人が精神的にダメージを受けて心が折れて立ち直れ無くなってしまうような、その人が教会の中で人々から憎悪されてしまうような、厳し過ぎる裁きはあってはならない。しかし同時に、加害者が被害者に対して心からの謝罪と必要な賠償の責任追及を逃れるために『裁いてはならない』という命令が強調されることも、あってはならないだろう。

神が憐れんでくださるなら、罪びとであっても、滅びてしまうほど断罪されてはならない。しかし、神様が憐れんで下さるからこそ、誰かに被害を与えた人は、被害者に対して誠実に謝罪と賠償をする義務がある。『裁いてはならない』という一つの命令は、それ自体が文字通りの命令として絶対なのではなく、むしろ、真の意味で『絶対』である父なる神様の深い憐れみと愛に人の心を向けさせようとする、主イエスの恵みの言葉なのではないかなと思う。

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週報コラム(3月5日)

3/5/2017

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黄金律の意味:牧師宅で一匹の猫を保護した。その猫は発情期のため毎晩鳴きわめいて家中を徘徊するので満足に眠れない。感情的にはその猫を蹴飛ばしたくなるのだが、神様がその猫にお与えになった習性だから仕方がないと自分を納得させ忍耐する。自分と他者との間に神様が立たれると寛容が生ずる(相手が猫でも!) 主イエスは『人にしてもらいたいように、人にもしなさい。』と教えられる。しかしこれは、自分勝手に同情して善かれと思うことを相手に押し付けることでは無い。先ず必要なのは、真に人を知り、人を愛し、救うことがお出来になる神様が、自分とその相手との間にお立ちになることである。その時初めて人が『敵を愛する』という奇跡が起こり得るのである。それは聖霊の実である。
<週報からの引用終わり>

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追記:
主イエスが『敵を愛しなさい』と命令されることを心から実行できるとすれば、それは、今まで敵とみなしていた相手を、敵としてではなく、愛するべき対象として見るように自分自身の心が変えられる他にない。その心の変革は、自分自身の心を神様が愛で満たしてくださることによってのみ、可能となる。

だからと言って、これは、人が自分勝手に『私は神の心で満たされた。だから、私の意見は正しいのだ!』と自己主張することを正当化する理由にされてはならない。主イエスは、私たちをどのように神が満たし、その結果、私たちがどのように変えられてゆくかについて、非常に限定的に、狭く定義している。それは、神が私たち一人ひとりに憐み深いように、私たちも他者に憐れみ深くあるということである。

その意味では、キリスト者は、戦争、社会的制裁、あるいは正当防衛など、何らかの形で他者の命を害する行為を、『それは神の御名によってなされたことだ』などと、口が裂けても言うべきではない。人が人を殺害するのは、人が自分自身と、自分自身の生活を支えている社会のシステムを守ろうとして行うことである。それは人間の弱さゆえにやむを得ず生じてしまうことであって、それを神様が積極的に望んでいる訳では無いと私は、思う。

人は他者を見る時、そこに様々な心の壁を建て、敵と味方に分かれる。

しかし、神は人を見る時、そこにいつくしむべき愛する存在をご覧になる。

人が神の御名によってできる行為は、憐みと、慈しみと、愛の行為のみである。

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