主イエスは「愛しなさい」と命令します。しかし「愛」とは恋愛感情ではなく、むしろ平安な家庭の団結力と言えます。例えば、夫の妻への誠実、妻の夫への助力、親の子に対する愛情と訓練、子の親に対する敬意と従順、子ども同士の絆。愛とは、そういった人間関係の基礎です。その意味では「愛の形」は、文化や伝統によって違う面があります。長い歴史を通して発展してきた教会はそれぞれ違った文化と伝統持ち、主イエスを愛し互いを愛する「形」は同じとは限りません。伝統や習慣の外面を見て「あの教会は正しくない・神を愛していない」と裁くことなど出来ないことが多々あるのです。神はむしろ、教会の心を見られるのですから、神に仕える教会も同じ態度でありたいものです。<週報からの引用終わり>
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ある旅行会社が150億円の負債を抱えて破産を申請しました。しかしこの会社の社長は自宅に多額の現金を隠し持ちました。債権者に対するこの不誠実は法的に犯罪として見なされ、その人は逮捕されました。さて、ある人が「神の前に正しく生きよう」と努力しましたが、結局神の命令に違反してしまい、神に対する負債を抱えて破綻したけれど、神の恵みによって罪を免責されました。しかしこの人は、「私は努力して神の御前に正しく生ることができる!」という自負心を隠し持ち、正しい行いを追求する努力を止めず、自分のように正しくない罪びと達を裁きました。しかし、それは神の御前に犯罪と見なさるのです。神に従おう!と頑張る熱心が、かえって「裁いてはならない」という主イエスの御命令への違反行為として結実してしまうことがあるのです。<週報からの引用終わり>
米国のある空港での出来事。乗継便に遅れそうで焦っていた時のこと。ある職員が「ターミナル1に行け」と言うから、私はそこに走って行く。そこに着くと、今度は別の職員が「いや、ターミナル2へ行け」と言う。私は、「いや、あちらのスタッフにはここに行けと言われた」と反論すると、「そんな(部署の違いである意味専門外)人の言う事を信じちゃだめだ」と言われる。フライトの搭乗時間が迫る中、右往左往させられ、「こんな空港は二度と御免だ」と思う。・・・同様の混乱は教会の中にも生じています。ある人は「救いにはAが必要だ」と言う。別の人は「いや、Bが必要だ」と言う。その二人は言い争っている。救われるためにキリストに辿り着かねばならない人の心は、「こんな混乱した宗教はもう御免だ」と思ってしまう。・・・すべてのクリスチャンが心を一致させ、キリスト・イエスを通した神の恵みによる救いを告白することが出来るかどうかが、伝道の急所なのでは無いでしょうか。
<週報からの引用終わり> |
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January 2021
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