<週報からの引用終わり>
追記:
「今まで~してきたのだから、これからも~しよう。」 ・・・ この心の思いは、きわめて、強力だ。
人は、何かしらの「仕組み」がうまくゆく(と思える)と、その仕組みを保持して、これからもうまくゆく(と思う)という安心の中に安住しようとする心である。その、人間の「行いの仕組み」の中に、成功や安定を感じて、それを守ろうとする心。それは、しかし、本当の意味での成功や安定を与えて下さる神様の愛に対して背を向けることになりかねない。
今回のことを通して、自分の中に巣食っている、行いを追求する「パリサイ根性」が明るみに出されたと思う。その律法主義的な心は、私が誰かに対して「あなたは律法主義的だ!」と批判できるようなものでは決してないのである。私が、律法主義者なのである。それは物理的な、外見上の、行いの中に閉じ込められている自分の肉体がある以上、出ることが許されていない、パウロが「自分は何とみじめな者か!」と嘆いた、ありのままの自分の姿。
しかし、形がどうであれ、ひとり一人の心の中に、主イエスを通した神の愛が溢れている事。それが、唯一、私が曲げることのできない根性であり、捨てることの無い伝統であり、一心に求める目標であって欲しいと、自分自身に対して願う。
しかし、それにしても、自分自身の心は、なんともはや、困ったものである。