大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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週報コラム(4月30日)

4/30/2017

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礼拝とは何だろう。日曜日に教会に来て、祈り、讃美し、聖餐に与り、献金し、帰宅する。その一連の儀式が「礼拝」なのだろうか。そうであって、そうではない。キリスト者が神の愛と恵みのゆえに行うあらゆることが礼拝だという意味では(ローマ12:1)、日曜日に集まることが本当に「礼拝」なのかどうかは、会衆の神に対する心の問題なのである。「礼拝」と私たちが銘打つ行為の真価は心において問われる。神の愛の私たちへの臨在が真剣に求められ、心から期待されるとき、神が会衆の前に愛なる方としてお立ちになる。礼拝とは、神が生み出す、神の出来事なのである。そうであるなら、神の愛の現れとして十字架にかかって下さった主イエスを記念する聖餐式は、まさに、礼拝の本質なのである。
​<週報からの引用終わり>

追記:

「今まで~してきたのだから、これからも~しよう。」 ・・・ この心の思いは、きわめて、強力だ。

人は、何かしらの「仕組み」がうまくゆく(と思える)と、その仕組みを保持して、これからもうまくゆく(と思う)という安心の中に安住しようとする心である。その、人間の「行いの仕組み」の中に、成功や安定を感じて、それを守ろうとする心。それは、しかし、本当の意味での成功や安定を与えて下さる神様の愛に対して背を向けることになりかねない。

今回のことを通して、自分の中に巣食っている、行いを追求する「パリサイ根性」が明るみに出されたと思う。その律法主義的な心は、私が誰かに対して「あなたは律法主義的だ!」と批判できるようなものでは決してないのである。私が、律法主義者なのである。それは物理的な、外見上の、行いの中に閉じ込められている自分の肉体がある以上、出ることが許されていない、パウロが「自分は何とみじめな者か!」と嘆いた、ありのままの自分の姿。

しかし、形がどうであれ、ひとり一人の心の中に、主イエスを通した神の愛が溢れている事。それが、唯一、私が曲げることのできない根性であり、捨てることの無い伝統であり、一心に求める目標であって欲しいと、自分自身に対して願う。

しかし、それにしても、自分自身の心は、なんともはや、困ったものである。
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週報コラム(4月23日)

4/23/2017

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伝道者の飼猫は、二階のベランダの柵の隙間をすり抜けて教会の屋根に飛び移る;しかし一度すり抜けた柵が今度は邪魔をして、屋根からベランダに戻れなくなって困っていた。猫は、最後は意を決して柵を飛び越えて家の中に戻ってきた。・・・人の救いも、どこかこれに似ている。人は、神の命令をすり抜けて罪を犯し、エデンの園を出てしまった。神の祝福の中へ戻ろうと振り返ると、そこには、「律法が明らかにする罪」の存在が立ちはだかり、戻れない。しかし、人は、主イエスの救いによって、「律法が明らかにする罪」という断絶の壁を飛び越えて、父なる神の懐(ふところ)の中へと戻して頂いたのである。人が律法を守ったからではない。罪滅ぼしをしたからでもない。ただ、神の恵みによって懐に抱いて頂いたのである。私たちが聖書の命令に従うことで神に近づけると思うなら、それは、猫が教会の屋根からベランダの柵に突進し、ぶつかり、転落して自らを傷つけてしまうのと同じ運命をたどることになる。
<週報からの引用おわり>

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追記:
動物を捕獲するための罠(わな)は、原理的に、動物をおびき寄せる餌と、閉じ込める囲い、そして、入ることはできるけれども出ることはできない入口の構造によって構成される。一方通行の道と、一度はいると出られない現実が組み合わさって一つの世界;そしてその世界の中へと動物を誘い込む魅力のある物体。

アダムとイブがエデンから追放されてしまった物語、そして福音のメッセージと、どこか重なる。

アダムとイブは、悪魔に騙されて、善悪の知識の木の実が自分たちを美しく賢くしてくれる魅力的な者だと勘違いして、それを食べてしまった。その行為によって、人は、一方通行で戻れない「罪の道」に入ってしまい、死という檻の中に閉じ込められてしまった。

しかし、主イエスの十字架と復活によって、この死の檻の片隅に、風穴があいてもう一つの道ができた。人は、その道を信じてそこに歩み入るることで、これまた一方通行で戻れない「救いの道」に入り、永遠のいのちという檻(神の愛)の中に閉じ込められてしまった。「死の檻」という現実への扉は、背後で固く締められてしまい、「永遠のいのち」という現実への扉が、地平線の向こうで、大きく開かれて私たちを待っている。

そこには、神様がアダムとイブを最初に造られた時に満ちていた、神と人との愛の関係、人と人との愛の関係、愛が満ちている現実がある。その愛の現実のほんの一部を、私たちは今、肉体にあって生きる中で味わい、現わし、伝えて行くのである。

今、教会に求められていることは何か?と問うことは、「教会が内外に対して愛を味わい、現わし、伝えるために必要なことは何か」と問うことであり、「どのように聖書の命令通りに行動すれば正しくなれるか?」と問うことでは無いのである。

しかし、大切なのは、教会の心が愛から離れて行く時、教会は、争いや、怒りや、肉の思いのままの欲望が支配するようになり、聖書が私たちに与える命令から、どんどん乖離(かいり)してゆくことである。肉の思いのまま、神を見ずに生きてゆこうとする教会に対しては、律法は悔い改めを強く求めることだろう。しかし、もし教会が、心からお互いを、世界を、神を愛する人たちの集まりとして存在しているなら、彼らを裁く律法は何一つ存在しないのである。

愛を求めること。これが教会の命である。

「聖書を理論的に、理性的に、解釈して理解することで正しくなれる」というのは、本来私たちが避けなければならない思想なのである。

私たちは、「聖書を理論的に、理性的に、そして霊的に受け止め、愛し合おう!愛し合う力を神様から聞き、与えて頂こう!」 そのように聖書を読み、学ぶべきではないだろうか。

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週報コラム(4月16日)

4/16/2017

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キリスト者の心の矛盾:キリスト者は主イエスの十字架に自分たちの「罪の赦し」を見る。しかし、それは主イエスの十字架が私たちの死である (ガラテヤ2:20)からであり、律法は死んでしまった人を裁くことはできないからである。その意味では(私たちはそれを見落としていることが多いのだが)人の善い行いや正しさも、主イエスの十字架のゆえに、神の御前にあってはもう何も評価の対象にはならない。十字架は、人間を無力と絶望の中に閉じ込める。しかし、その闇の中にこそ、神の恵みは照り輝く。その太陽のような神の輝きの中で、尚も「自分の正しさ」という風前の灯のようなろうそくを灯そうとするのは、その正しさが聖書に基づいていたとしても、それは信仰ではない。むしろ、それは霊的な盲目である。
<週報からの引用終わり>

​

追記:
使徒パウロは、ガラテヤ2:20で、「私はキリストと共に十字架にかけられた。もはや私が生きているのではない」と宣言している。それは、人間としての自分は死んだとパウロが自分のことを認識しているということ。その、パウロが言うところの自分の死の認識を、今まで私はかなり軽く見ていたと思わされている。主イエスの復活の力に生きる自分という存在の認識の深さは、自分自身が死んでいるという認識の深さに正比例する。どこまで、パウロは、自分自身を死人として認識していたのだろうか・・・。私たちが、使徒パウロの言葉を、本当に、私たちが、現実に私たちの身の周りで死んでしまった召天者に対して認識するように、「今やキリストの復活の力によって生かされている、人間的には死んだ存在の言葉」として意識して、意図的に聞こうとするとき、そこから得られる理解は、かなり違ってくると思う。

つまりこういうこと。パウロの側で「自分は死者である」という、人間的には全く無力な立場から語られた言葉を、私たちが本当の意味で受け止めようとするなら、それは、聞く側においても同様に、「自分は人間的に無力である」という立場を出発点として、「神に全面的により頼んでいる者」として聞かれなければならない、と言うことである。

その割には、私たち教会やキリスト者は、自分の正しさを追求してみたり、自分の計画の遂行を目的としてその正当性を聖書から証明しようとして見たり、自分をより美しく、強く、偉大な存在へと高めようとして、パウロの言葉や聖書の言葉から何か役に立つ教えを聞こうとする。しかし、そのような態度は、聖書の理解においては、誤解を生むばかりなのでは無いか?と思うのである。

今回、聖書の読み方の根本的な見直しを迫られているように思わされた。天に召された死者の言葉は、力強く私たちの心をえぐるのだと思う。

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週報コラム(4月9日)

4/9/2017

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聖書の読み方:新約聖書の、「~への手紙」とは、文字通り「手紙」であり、書き手が受け手の状況に対して送っている、その時・その場所で有効なアドバイスである。駅で迷子にならないようにと、母親が子供に「手を放さないで!」と命令した場合、その子が家に帰っても「そう命令されたから」と、母親の手を放そうとしないのはおかしい。同様に、二千年前の昔に書かれた聖書の「こうしなさい」という命令を、機械的に現代の教会に適用するのは無理である。むしろ、「手を放さないで!」という命令の背後に母親の子供への愛を読み取れるのと同様に、私たちは聖書から、聖書が証する神の愛を読み取り、その愛に対して心から応答することが、本当の意味で聖書的である、ということなのである。「聖書に書いてあるから」という理由だけで機械的に聖書の命令に従おうとするのは、実は聖書的では無いのである。
<週報からの引用終わり>

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「盲目な愚か者め!
嫌な奴!
変態!
共産主義者め!
神を冒涜する者め!
不道徳な気味の悪い奴!
この世のクズめ!
ボカ!ボカ!ボカ!」



「おいおい、
ちょっとお互いに敬意を持とうぜ!」

私は、長い間、何を見てきたのだろうか。聖書を神の言葉と誇りつつ、その無謬性(むびゅうせい)を誇り、それが真理だと誇り、その誇りから、一体どれだけの方々を裁いてきたことだろう。・・・聖書を一番理解していなかったのは、この私だったのに。

すべての人たちを深く愛しておられる神様が、すべての人たちを救おうと、今、働いていて下さる。その憐み深い慈しみの心の中に先ず自分自身が囚われ、包まれ、かくまわれるところにある平安。その平安から、同じ平安の中へと人々を招こうとする心からの宣教。そのような宣教なら、それは本質的に相手への愛に基づくものとなるはずで、そこには裁きの心は止むはずなのに・・・。

教会は、聖書を誇ってはならない。

教会が誇りとするべきことはただ一つ。主イエスの十字架。ただ一度、永遠の罪の贖いとして、主イエスが私たちのために死んでくださったということが起こったという事実。神様が私たち人類を救う御心を、今も、この時、この場所で持っていて下さるということ。神の救いの心こそ、私たちのよりどころ。私たちの誇り。


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週報コラム(4月2日)

4/2/2017

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信仰を吟味する、心の実験
あなたが、「神様に罪を赦され、救われるための条件」として、自分自身ではそれをクリアしていると思っている事を一つ心の中で思い浮かべ、空欄を埋めてください。
​
⇒ ​私は、               している/したので、罪赦され、救われています。
 
Fill in the blank (in your mind) below with whatever you believe as the necessary condition of your salvation and forgiveness of your sins, which you claim that you yourself have met it (them) already.

⇒ 
I am saved and my sins are forgiven because I have been                      . 
​

<週報からの引用終わり>

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追記:
​上の問いの空欄に、人間の行いを入れると、それは【行為義認】という、主イエスの恵みを通しての罪の赦しを必要としていない自分自身の存在を肯定することになる。例えば、「わたしはバプテスマを受けたから救われた」と言えば、それは、その自分の「バプテスマ」という行為の中に含まれている形式的な間違いや、神学的な勘違いや、信仰的な足りなさなどについては、「もう神の憐れみに基づく赦しを必要としてはいない」ということを、実は言っているのである。そして、たとえ口に出して言っていなくとも、裁いている相手が実際にはまだいなくとも、原理として、心の中では、その正しさの立場から、他の人たちに対して、「あなたはバプテスマを受けていないから救われていない」という裁きを下しているのである。その、自分の正しい立場から他者を裁くことによって、その人は、より正しい者として神に褒められるのではない。逆に、罪を赦される必要のない自分を誇ることによって、神から遠く離れるのである。

その意味で、「バプテスマを受ければ救われる・受けなければ救われない」という心で受けるバプテスマの儀式の断行はは、実は、原理的に、人を神から遠ざけてしまうのである。バプテスマを考えている求道中の方に「あなた、早くバプテスマを受けないと救われませんよ!明日交通事故で死んでしまったらどうするんですか!?」と迫ってバプテスマを勧めることは、決してしてはならない。なぜなら、そのように迫ることで、行為義認の原理の中にその人を引き込み、そして閉じ込めることになるからである。その人は、その信仰の生涯を、神の恵みでは無く、自分の行為義認の生き方に生きることになってしまうのである。罪を赦された自由人でありながら、刑務所暮らしを強いることになるのである。

罪深い女は、罪を恵みによって赦された結果として、自分でもどうしようもないような喜びが心に沸き上がり、主イエスを心から愛する行為へと促された。その促しは霊的な、神の祝福である。同じように、例えばバプテスマも、その行為は、主イエスを信じて罪を赦されて救われた者に神が与えて下さる、賜物としての心の促しに基づく行いなのである。すなわち、バプテスマは救われるために受けたり、受けないと救われないから受けたりするものではなく、自分を救って下さった神の恵みと、罪を赦して下さった主イエスの愛が、自分の心の中で確かに実感として受け止められた時、そこに神が促して生み出して下さる、その人への祝福の出来事なのではなかろうか。父と、御子と、聖霊が、共に喜んで微笑んでいて下さる出来事が、そこに起こっているのである。

バプテスマは、その意味で、人間が救われるために行うことでは無く、救われた者が、神に祝福される恵みの出来事なのである。だとしたら、だからこそ、主イエスを信じて罪を赦され、そして救われた者が、バプテスマを受けない(それに促されてゆかない)ことは考えられないのである。その神の促しの結果として人が与えられるバプテスマへの動機は、「それをすれば救われる」という条件クリアの満足感などよりも、遥かに重く、素晴らしく、尊い意味がるのである。その意味で、私は過去にバプテスマを受けて本当に良かったと思う。主イエスを信じる方々も、心を促されてバプテスマを受けて欲しいと心から思う。(その心から言うならば、バプテスマの形式が、浸礼であるのか滴礼であるのか、それはもう問題とはならない。なり得ない。)

神の恵みを受けよう!主イエスを信じ、罪を赦され、そして、主イエスを愛する行いへと促されてゆこう。そして共に歩もう!
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