大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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イザヤの召命は、うめきだ。

5/30/2016

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私は『誰を遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください』 イザヤ書 第6章 8節

このイザヤ書の言葉は、幾度となく、キリスト者を伝道へと焚き付ける根拠として私の耳に語られてきた。しかし、イザヤ書 第6章の文脈から、また、神への不従順を繰り返した結果アッシリアとバビロニアの捕囚に遭ったイスラエルの歴史を考えてこの一節を理解するとき、それはキリスト者が伝道者・宣教師・牧師・あるいは奉仕する信徒としての召命を自分自身に促したり確認しようとするために引用されるべき言葉では無いと思えてくる。

なぜなら、8節の直後に続く、9節から13節に描かれている現実は、神の民の徹底した神への反抗と敵意に預言者が遭遇し、彼の預言にも関わらず民は悔い改めることを拒み、その結果、国が荒廃し滅びるという、裁きの運命だからである。イザヤは、神から『誰を遣わそう』と聞いたとき、喜んで、『はいはい!ここに私がいまーす。ぜひ、私を遣わしてください!喜んで参ります!』と勇んで立候補したのではなかったと思う。そんな、笑顔のイザヤは、私にはまったく思い浮かばない。

むしろ、預言者イザヤは、二つの事柄に挟み撃ちに遭い、深くうめいたはずである。一つは、神に聖めていただいたという驚愕の救いの出来事(6~7節)が自分の身に起こったということ;二つ目は、自らが遣わされる先には、不信仰を極める者たちの激しい敵対が待っていて、そこで自分は拒絶されるということが決まっているばかりか(9~10節)、自分の預言の努力も実を結ばないであろう(11~13節)という、受け入れがたい運命である。

どうして、そのような痛みと悲しみしか期待できない行き先が示された中で、イザヤは喜び勇んで献身の道を選び、預言者の責務に立候補などできようか。 『誰がわれわれのために行くだろう』という神の御声は、イザヤにとっては、逃げ道が神にふさがれ、預言しなければ自分は禍(わざわい)に会うと思わされるような、そのような神が切実に迫る圧力の下で、人間的な勇気と信仰を振り絞って恐れおののきながらようやく口にした、神様の前に自らを明け渡した信仰の告白であったのではなかろうか。 『主よ・・・。私が・・・ここにおります。わたしは、あなたの前に、逃げ隠れできません。(私は行きたいなどとこれっぽちも思えませんが、あえて)あなたが望まれることならば、私を遣わしてください。私を、苦しみの中にあっても、どうか支えてください』と。

預言者とは、そのような、うめくような決意を神によって促された者たち。それは使徒パウロをして『福音を宣べ伝えなかったら私はわざわいに会います(1コリ9:16)』と言わしめた召命であり、罪びとたちの激しい抵抗によって十字架につけられた主イエスの、うめきの声である。イザヤを、パウロを、そして主イエスを見るとき、この箇所(イザヤ6:9)は、それほどまでに重い十字架を背負って私たちの前に立つ預言者たちの言葉を、私たちが、いかに受け止めなくてはならないかという切実な問いかけとなる。私たちは、その、命をかけて神の言葉を伝えた預言者たちの言葉を、神の言葉として信じ、悔い改める責務があるのではないか。 

『私を遣わしてください』というイザヤの一言を、私たちは安易に自らの召命の言葉としてはならない。 イザヤの一言は、彼の命がけのうめきの一言なのだから。それを理解するとき、この言葉は、神から、私たちへの、『この預言者に耳を傾けよ!』というメッセージとして響く。私たち個々が、イザヤの言葉を自分の召命にかかわる言葉として理解できるかどうかは、私たちが先ず神の言葉に耳を傾け、実存を変革させられた先にあるかもしれない出来事であり、それは、それぞれに信仰の量りに応じて使命をお与えになる神様の采配によるものであり、万人に許された(求められている)告白ではないのだと思う。

神に召される時、そこには、 『自分としては全然行きたくないが、神の召命ゆえに行かざるを得ない』という、うめきの出来事があるはずだ。・・・それをイザヤ書第6章は、私に伝えているように思う。
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教会こそ、悔い改めが必要; Repentance is for the Church.

5/22/2016

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筆者は、説教準備をする中で感じたことをヒントに、教会の週報に短いコラムを書く。説教の中で補足し切れないが、大事なことだと思った内容を書くことが多い。そのコラムを、ブログに記録してみようと思う。

2016-05-22
文脈を読む大切さ:1コリント1:19の『わたしは知恵を滅ぼし・・・』という言葉は、イザヤ書29:14の引用だ。この一言は、神を自らの味方につけた信仰者の立場から、非信者に対して『神、汝らを滅ぼすなり!』と言い放たれては決してならない。なぜなら、イザヤ書の文脈を考慮すると、この一節は、心が伴わない、口先だけの、形骸化した、人間の自己満足的な礼拝行為を神は拒まれるという、神の民に対して悔い改めを求める預言に他ならないからである。このように考えると、パウロがここで問題としているのは、神が非信者を裁いたり滅ぼしたりされる、ということでは決してなく、むしろ教会内部においてキリスト者の信仰が形骸化して自分勝手になる傾向に対する、悔い改めと矯正を求める言葉として、私たちに迫る。  すなわち、滅びなければならないのは、非信者ではなく、むしろクリスチャンの心の中に巣くう自己中心的なプライドなのである。そのプライドが悔い改められないところには、分裂が生じてしまうのである。
<以上>

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ところで・・・・
教会の、世界へのメッセージの一つは【悔い改め】である。教会は、しばしば、世にはびこる悪に敏感で、それを裁いて糾弾する使命感に燃えている。だが、しかし、この【悔い改めよ】というメッセージは、教会自体が率先して悔い改めている群れでなければ、無責任・一方的・抑圧的な命令となる危険が大きい。命令するものは傲慢に陥り、命令される者はしいたげられて疲弊する。いずれ両者の間には敵意が生まれて分裂するか、不健康な主従関係が生まれて虐待やカルト化が生ずる。主イエスはそんな、人間同士が争いあったり、誰かが誰かを支配するような教会を望まれているはずがない。

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むしろ、悔い改めのメッセージは、【ともに、一緒に、悔い改めよう】という、人と寄り添い、お互いを助け合う関係性の中でしか成り立たないものだと思う。それは人間としての苦しみの共有であり、同時に、それゆえに神の救いを共有する共同体を生み出すメッセージになり得ると思う。教会って、そういう集まりじゃないかな?と思う。 人は、誰かの重荷を担うことで、力が湧き出ることがある。また、誰かに重荷を担ってもらわないとつぶれてしまうことがある。そのように、お互いの悔い改めの必要を認め、神の前に生きてゆくときに、この世で経験する苦しみを担い合う共同体の中に、私は生きたい。

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キリスト者としての思考(2)

5/15/2016

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筆者はクリスチャンホームに生まれた。中学生くらいの時に洗礼を受けた。中学、高校、大学と成長してゆく中で、『伝道』という一つの課題は、心のに重くのしかかる負担でしかなかったように思う。伝道はその時、教会が自分に押し付けてくる労働であり、義務であり、責任であった。しかし、そこには喜びが無い。自主性が無い。だから、私は、伝道に熱心に関わろうとはしなかったと思う。

40歳代になった最近、歩きながら、ふと考えた。
『神様はどちらの側に立っておられるだろうか。』

神様を自分の側に置き、自分は愛され、救われている者と位置付ける。そのように自分の『義』を確保した上で、未信者の側を、神様不在で、神様に裁かれ、憎まれ、救われなければ地獄行きの存在として位置づける。そして、『神に愛され救われている私から、神に裁かれ滅んでいる貴方へ』と、伝道の言葉を語ろうとする。

その『神に愛されている、私』→『神に憎まれている、あなた』というコミュニケーションの中に、何とか『愛』を定義しようとして頑張り、様々な(聖書の、また自分自身の)言葉をもってそれを証明しようとするのだが・・・、最初から相手を卑下した心に愛がある訳が無く、無理やり愛という言葉を連発する。その言葉は空回りし、相手を傷つけ、自分を疲れさせる。・・・共倒れである。

私は思い始めている。神様は自分の側に置かれるお方ではなく、相手の側にこそ見出されるべきお方なのではないかと。つまり、未信者である相手の傍らにこそ、父なる神様と主イエスが立っておられ、同伴しておられ、その人を深く愛しておられる。そのとき、未信者の方は、神に憎まれて裁かれる人ではなく、神に愛され救われようとしている人となる。 その時、私はどのような態度をとり、どのような言葉を発するようになるだろうか。私が人を愛することよりも、神がその人を愛しておられることの方がはるかに重要なのだから、私自身は語るべき言葉、語れる言葉を、失うかもしれない。私は消えてしまうかも知れない。だが、そうであってほしいとさえ思う。私など、どうでもよいのだ。

自分を『救われた者』と位置付け、相手を『裁かれている者』として見下している以上、伝道は、義務であり、責任であり、負担であり続けるだろう。しかし、それは甚だしい勘違いのの中に生ずる、信仰の虐待とさえ言えるかもしれない。伝道とは、あらゆる人間の、あらゆる人間的な優位性を否定する、神のご臨在を前提とする人間関係の中にあって、初めて成り立つものなのかもしれない。伝道とは、本質的に、人間が人間に対して行うものではなく、『神が、人に対して行っておられる御わざ』なのではないか。キリスト者は、その神の御わざが自らに起こったことと、他者に起こり得ることを証言するに過ぎない。

伝道とは、私がすることではなく、神の働きの中にあって、神と共に、人に寄り添う事なのではないか。

もう、すでに、私が誰かを愛するのではない。

そうではなく、誰かを愛する神様を、私は喜ぶのである。

それで良いのではないかと思う。
そういう伝道の方がもっと楽だ。
また、そういう伝道のためになら、犠牲を払う価値があると思う。
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キリスト者としての思考

5/4/2016

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下の画像は、インターネットで拾ってきたものであるが、読者の方々はこの画像にどのような思いを重ねるだろうか。主イエスが子供達を抱きつつ、そしてご自分の下へと、『あなたもこちらへ来なさい』と、手招きしている様子である。この様子からイメージするのは、例えば、『あなたも、この子供のようになって、わたしの下に来なさい。』 と主イエスがおっしゃっている、という思いだろうか。
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しかし、実際にこの絵の元ネタとなった聖書の箇所(マタイ 第10章)を考慮すると、こう考えることが出来るだろう。『あなたがたも、この子供達を、わたしがしているように、受け入れなさい。』 と、主イエスが仰っておられる、と。 私たちキリスト者は、そのように罪びとを受けいれられている主イエスに、『お前たちもそうしなさい』と、招かれているのである。そのとき、主イエスは、罪びとの傍らに寄り添い、罪びとを受けいれているお方として私たちの目の『前』に居られるのである。

キリスト者が自分自身と神との関係性について表現する時にしばしば見られるパターンは、自分たちを、(この画像の中に置き)主に抱かれている子供達として位置づけ、無力である自分たちの背後には、権威と力ある神がおられるので、何も恐れるものは無いという立場に立ち、その権威と力ある立場から、自分の外にいる環境の影響を過小評価したり、罪びとたちを裁こうとする姿勢である。その思考パターンや姿勢の善悪はさておき、本記事で提案したいのは、もう一つのパースペクティブ(視点)である。

それは、主イエスが自分の『外』に立ち、自分の(常識や倫理の)外で、自分自身が罪びとだと決め込んで除外し、嫌い、避けようと思っている(自分の目には)俗悪だと思える人たちの、まさに傍らに居られ、その人たちを愛し、受け入れておられる、という真実を見るという事である。つまり、キリスト者が、『あんな人は、救われるはずがない。』とか、『あんな人は許せるはずがない』とか思っている人を一人思い浮かべる時、その一人の人は、上の画像の子供の一人なのである。キリスト者として、その一人の人を、裁き拒絶することが、主の御前で出来るだろうか・・・。

そういう自己吟味を迫るのが、この一枚の絵なのではなかろうか。
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