このイザヤ書の言葉は、幾度となく、キリスト者を伝道へと焚き付ける根拠として私の耳に語られてきた。しかし、イザヤ書 第6章の文脈から、また、神への不従順を繰り返した結果アッシリアとバビロニアの捕囚に遭ったイスラエルの歴史を考えてこの一節を理解するとき、それはキリスト者が伝道者・宣教師・牧師・あるいは奉仕する信徒としての召命を自分自身に促したり確認しようとするために引用されるべき言葉では無いと思えてくる。
なぜなら、8節の直後に続く、9節から13節に描かれている現実は、神の民の徹底した神への反抗と敵意に預言者が遭遇し、彼の預言にも関わらず民は悔い改めることを拒み、その結果、国が荒廃し滅びるという、裁きの運命だからである。イザヤは、神から『誰を遣わそう』と聞いたとき、喜んで、『はいはい!ここに私がいまーす。ぜひ、私を遣わしてください!喜んで参ります!』と勇んで立候補したのではなかったと思う。そんな、笑顔のイザヤは、私にはまったく思い浮かばない。
むしろ、預言者イザヤは、二つの事柄に挟み撃ちに遭い、深くうめいたはずである。一つは、神に聖めていただいたという驚愕の救いの出来事(6~7節)が自分の身に起こったということ;二つ目は、自らが遣わされる先には、不信仰を極める者たちの激しい敵対が待っていて、そこで自分は拒絶されるということが決まっているばかりか(9~10節)、自分の預言の努力も実を結ばないであろう(11~13節)という、受け入れがたい運命である。
どうして、そのような痛みと悲しみしか期待できない行き先が示された中で、イザヤは喜び勇んで献身の道を選び、預言者の責務に立候補などできようか。 『誰がわれわれのために行くだろう』という神の御声は、イザヤにとっては、逃げ道が神にふさがれ、預言しなければ自分は禍(わざわい)に会うと思わされるような、そのような神が切実に迫る圧力の下で、人間的な勇気と信仰を振り絞って恐れおののきながらようやく口にした、神様の前に自らを明け渡した信仰の告白であったのではなかろうか。 『主よ・・・。私が・・・ここにおります。わたしは、あなたの前に、逃げ隠れできません。(私は行きたいなどとこれっぽちも思えませんが、あえて)あなたが望まれることならば、私を遣わしてください。私を、苦しみの中にあっても、どうか支えてください』と。
預言者とは、そのような、うめくような決意を神によって促された者たち。それは使徒パウロをして『福音を宣べ伝えなかったら私はわざわいに会います(1コリ9:16)』と言わしめた召命であり、罪びとたちの激しい抵抗によって十字架につけられた主イエスの、うめきの声である。イザヤを、パウロを、そして主イエスを見るとき、この箇所(イザヤ6:9)は、それほどまでに重い十字架を背負って私たちの前に立つ預言者たちの言葉を、私たちが、いかに受け止めなくてはならないかという切実な問いかけとなる。私たちは、その、命をかけて神の言葉を伝えた預言者たちの言葉を、神の言葉として信じ、悔い改める責務があるのではないか。
『私を遣わしてください』というイザヤの一言を、私たちは安易に自らの召命の言葉としてはならない。 イザヤの一言は、彼の命がけのうめきの一言なのだから。それを理解するとき、この言葉は、神から、私たちへの、『この預言者に耳を傾けよ!』というメッセージとして響く。私たち個々が、イザヤの言葉を自分の召命にかかわる言葉として理解できるかどうかは、私たちが先ず神の言葉に耳を傾け、実存を変革させられた先にあるかもしれない出来事であり、それは、それぞれに信仰の量りに応じて使命をお与えになる神様の采配によるものであり、万人に許された(求められている)告白ではないのだと思う。
神に召される時、そこには、 『自分としては全然行きたくないが、神の召命ゆえに行かざるを得ない』という、うめきの出来事があるはずだ。・・・それをイザヤ書第6章は、私に伝えているように思う。