ある方から、このメッセージが、『新鮮だった』というコメントを頂いた。私には、それが不思議でならなかった。説教の内容は、きわめて伝統的。また、神の恵みと愛は、それこそ神様がアブラハムを選んで人類を祝福するのだと約束された(創世記12章~)という、今から4000年前の出来事が起こった時から、ずっと語られてきていることである。それは、古(いにしえ)の時代から、何千、何万、何百万回と、繰り返して、人の口を通して語られてきた、神の愛の物語である。
新鮮だった、とコメントを頂いた説教は、
新しい思想ではなく、
斬新さアイディアもなく、
オリジナリティもなく、
生活に直接役立つような知恵もない。
そんな『使い古されたメッセージ』が、新鮮さをもって、一人の人の心に届いた。
それは、説教者としては、本当に不思議な出来事なのである。

レストランで、同じメニューを注文すれば、同じ食卓が作られる。
家庭の食卓は、まったく同じであることはない。どこか、いつも、違う。
新鮮さがある。
聖書は、レシピではなく、冷蔵庫であってほしい。時々特売品が見つかるスーパーであってほしい。
説教の準備は、神の言葉を開くたびに、そのあ りきたりの、何回も読んだはずのテキストの中に、再度、毎回、自分をチャレンジし、想像力と、創造力を駆使することが求められ、その求めに自らの心が応答するよう な体験であってほしい。説教は、その言葉を共に聞く仲間たちの顔を思い浮かべながら作り上げられるものであってほしい。そういうときに、説 教は新鮮であり続けることが出来るのかもしれない。
逆に、説教が、『人間を驚かせ、喜ばせ、賞賛されるものでなくてはいけない』という、プロのお節料理のレシピに縛られるとき、それは、美麗なメッセージであっても、やがてマンネリ化して、いのちを失ってしまうかもしれない。