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説教をする人は、専業主婦とにている・・・・かも。

6/27/2016

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しばらく前、『神様は、愛することを選ばれる』という題名で説教をした(2016年 6月5日)。そのメッセージは、神様は、人間を能力の有無や、正しさなど、人間的なすばらしさ基準に取捨選択して選んで愛されるのではなく、どんな人でも、ありのままで、その人を愛するという、一つの、神ご自身の業を成し遂げられることを選んでくださっている、という内容だった。このメッセージは、神様の愛と恵みについての、原則的な事柄に触れるものであった。

ある方から、このメッセージが、『新鮮だった』というコメントを頂いた。私には、それが不思議でならなかった。説教の内容は、きわめて伝統的。また、神の恵みと愛は、それこそ神様がアブラハムを選んで人類を祝福するのだと約束された(創世記12章~)という、今から4000年前の出来事が起こった時から、ずっと語られてきていることである。それは、古(いにしえ)の時代から、何千、何万、何百万回と、繰り返して、人の口を通して語られてきた、神の愛の物語である。

新鮮だった、とコメントを頂いた説教は、
  新しい思想ではなく、
  斬新さアイディアもなく、
  オリジナリティもなく、
  生活に直接役立つような知恵もない。

そんな『使い古されたメッセージ』が、新鮮さをもって、一人の人の心に届いた。
それは、説教者としては、本当に不思議な出来事なのである。

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ここで思ったことがあるのだが、人が、何か斬新で、人の役に立って、オリジナリティにあふれて、いかにも素晴らしい説教をしようと頑張ることは、プロの料理人が腕を振るって、素晴らしく美味なお節料理を作るようなことなのではないか。それは、その料理を見る者の目を一瞬のうちに奪い、それを食べる者に満足感を与え、喜びを与える。・・・しかし、細部にまで作り込まれた職人技の結晶としての洗練された料理は、食べる者に強烈なインパクトを与える料理は、それを毎日食べるなら、マンネリ化し、心を打たなくなるのではないか。・・・いや、それ以上に、もういらないと捨てられてしまうのではないか。
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対して、専業主婦の人が家族のために毎日作る料理は、どのようなものだろう。その主婦は冷蔵庫を開け、今、手元にある食材をどう使おうかと思いを巡らし、工夫して料理する。スーパーに行って特売品を選んで、献立を決める。その料理は、ありきたりの、いつもある、慣れ親しんだ材料から作られ、毎回同じように見えることもあるだろう。でも、そのすべては、毎日、食事ごとに、毎回違う。確実に、違う。 それは、主婦は、作り込まれて、洗練されて、美麗な一皿を思い描いて決められたレシピを再現するのではなく、行き当たりばったりで、その場限りで、突貫工事的に見えるけれども、逆にそのランダムさゆえに、何でもありの『創造性』と、その料理を食べる家族一人ひとりの顔を思い浮かべて作る『愛』が伴っているからだ。

レストランで、同じメニューを注文すれば、同じ食卓が作られる。
家庭の食卓は、まったく同じであることはない。どこか、いつも、違う。
新鮮さがある。


説教は、家庭料理であってほしいと思う。
聖書は、レシピではなく、冷蔵庫であってほしい。時々特売品が見つかるスーパーであってほしい。

説教の準備は、神の言葉を開くたびに、そのあ りきたりの、何回も読んだはずのテキストの中に、再度、毎回、自分をチャレンジし、想像力と、創造力を駆使することが求められ、その求めに自らの心が応答するよう な体験であってほしい。説教は、その言葉を共に聞く仲間たちの顔を思い浮かべながら作り上げられるものであってほしい。そういうときに、説 教は新鮮であり続けることが出来るのかもしれない。

逆に、説教が、『人間を驚かせ、喜ばせ、賞賛されるものでなくてはいけない』という、プロのお節料理のレシピに縛られるとき、それは、美麗なメッセージであっても、やがてマンネリ化して、いのちを失ってしまうかもしれない。
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週報コラム 6月26日

6/26/2016

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ルカに見る、ザカリヤの祝福の意味
『神殿の中で香をたく』という儀式(1:8)では、当番の祭司が神殿内で神の恵みを願って祈りをささげ、神殿から出てきたら、民に『主があなたを恵まれますように』と祝福の言葉を述べる(民数6:25)。しかし、ザカリヤは天使ガブリエルの預言が信じられなかったために、しゃべれなくなって神殿から出てきたので、民に祝福を述べることができなかった。しかし、その約一年後、ヨハネの誕生によって神の言葉の成就をザカリヤが目撃したとき、彼は再び口が開かれ(1:63)、民に神の祝福の言葉を述べたのである。その祝福は、神殿という場所を出て、人々が赤ちゃんの誕生を喜ぶという身近な出来事の中で起こった。神は、私たちの真っただ中にあって、私たちの目線で、私たちに祝福の言葉を下さるのである。
<以上>
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理由なんかない

6/23/2016

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自分が、自分自身について何を・どう理解したら、聖書の言葉は、自分自身への言葉になるんだろう?って考えた。説教者として自分が、何を・どう説明すれば、説教を聞いた会衆が、聖書の文字としての言葉を神様からのものだと感じることができるだろうか?って考えた。

自分が罪人(つみびと)だと深く理解したら、聖書は罪の赦しを力強く語ってくれるのか?
自分が傲慢だと自覚したら、聖書は謙遜を教えてくれるのか?
イスラエルの歴史をきちんと理解したら、神の言葉は私の心に届くのか?
・・・いろいろと祈りながら問いかけて、考えていると、自分の勘違いに気づかされた。

神様の言葉は、神様の言葉だから、神様の言葉になる。
それ以外に理由なんてないし、いらない。

神様が私を愛していることに理由なんて付けられないように、
神様の言葉に「こうすれば、これは神の言葉になる」という条件など付けられない。

私が求められているのは、その言葉に真剣に耳を傾けること。
それが自分へ語られている言葉だと信じること。
その信仰が求められていることだ、と思った。

===============

私がするべきことは、
神の言葉を聞くこと。
神の言葉を見ること。
つまり、・・・主イエスに聞き、主イエスを目撃すること。

主イエスを見るとき、そこに罪の赦しがある。
その罪の赦しを見たとき、必然として、自分の罪は示される。

主イエスを見るとき、そこに本当の謙遜がある。
その真のへりくだりを見たとき、必然として、自分の傲慢が示される。

主イエスを見るとき、そこに父なる神様を見る。
その深いあわれみのお心をもって、人を救おうとされてこられた、神様を見る。
その、人を深く愛する神様を信じるとき、
ダビデの子孫であり、アブラハムの子孫で在られる、
主イエスのそのお姿の背後に、
イスラエルの歴史の本当の姿と、その意味が示される。

全部逆なんだ・・・

人は、自分を知って、神を知るんじゃない。
神を信じるから、自分を知るんだ。

だから、
説教者は、まっすぐに、神の言葉を伝える。
それ以外何もできない。

説教(礼拝全部)は、
教育じゃない。
自己吟味でもない。
人の罪をあれこれと指摘するものでもない。

説教は、神様のみ言葉に、人が聞く場。
神様に語っていただく出来事。

説教者も、また会衆も、共に、その出来事の中に
呑まれてしまうのだ。
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週報コラム(6月19日)

6/19/2016

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こどものように学ぶ:
神学校などでは、聖書の原語であるギリシャ語やヘブル語を学ぶ。その第一歩はアルファ ベットを覚えること。文字を正確に認識して発音できるようになることが、その後の何年間にも及ぶ学習の基礎となる。アルファベットを習得する最も効果的な 方法は歌として覚えることだ。こどものように【ABCの歌】を歌うことが、おとなとしての学習を支えるのである。学生は、おとなだけれども、こどもになっ て新しい知識を学ぶ。こどもになれないと、おとなとしての学習が進まない。キリスト者はどうだろう。信仰経験豊富なおとなは、こどもになって新しく主イエ スと出会うことで、かえって前進できるのではないだろうか?
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追記:
筆者が大学で実際にギリシャ語とヘブル語を学んだ時の経験から言えば、アルファベットを甘く見ているのか、それをきちんと覚えようとしない学生は、後々、苦労して成績も芳しくなかったことが多かったように記憶している。 最初にアルファベットをまじめにきちんと学ばないと、どうなるかと言うと、後々になって、教科書が読めない、先生の言っていることが分からない、文法を理解する・しない以前に単語が読めない、という状況に落ち込んでゆくのだ。学期中、何週間も経ってからその過ちに気づいても、基本に戻ってやり直す訳にもいかず、そのまま、ずるずると成績が悪くなり、結果的に不合格になってしまうというケースも。・・・でも、信仰生活に行き詰まったら、キリスト者はいつでも主イエスの下に戻るべきだし、きっとそこに新しい出発があって、その悔い改めを神様はきっと喜んでくださると思うのである。・・・というより、神様の前に自分が何かを悟ったと思って、もう子供じゃないと言いながら生きることは大変だ。むしろ、こどものようにあることのほうが、楽ちんだし、心も平安であり続けることができるのではないかな・・・。などと思う一日であった。

みなさんには、神様の祝福があります。
それに、私たちが気づくことができますように。
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週報コラム (6月12日 聖日)

6/15/2016

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どちらがより大切ですか?
1)私が神様を礼拝することと、神様が私と共に居て下さること。
2)私が神様を伝道することと、神様が世界を愛していて下さること。
<以上>

追記:
上の二つは、人間の行いと、その行いに意味を与えている神様の御業の、どちらが大切ですか?という問である。 キリスト者は、そういわれれば、迷いなく、どちらの場合も後者(神のわざ)を【より大切だ】と答えるだろう。しかし、問題は、現実的に自分たちの在り方を吟味するとき、私たちは、多くの場合、前者(人の行い)に躍起になっているということのほうが圧倒的に多いということである。

最近、アメリカ、フロリダ州、オーランド市で、銃の乱射事件があり、50名もの方々の命が奪われてしまった。事件の現場は、同性愛者が多く集まるバー(酒場)であったという。この事件を受けて、予想通り、即座にある対立する二つの見地からの意見が生じている。

一つは、神はこのゲイの人たちを裁いたのだという極端な意見;そして、もう一つは、殺害されたゲイの人たちも、神は愛されていたのだという意見である。一方では、神の前に悔い改めるべきだいう意見があり、もう一方では、神の恵みと愛が強調される。両方の意見に触れる中で、私は複雑な気持ちになった。

私自身は、このような事件に飛びついて、自分の神学的な見地についてあれこれと発信すること自体に躊躇(ためら)いを感じている。人間の世界に起きる様々な事件の中に、神はどのように介在しておられるのかと、人は議論する。 しかし、その議論の中で、神が見失われてゆくという危険性があるのではないか。あるいは、はじめから神不在の議論なのではないか。なぜなら、人間は、生まれながらにして、【神の臨在】にきわめて鈍感、いや、むしろ神のご存在を積極的に否定しようとしている生き物だからである(キリスト者である・ないにかかわらず)。・・・人は、神について語る前に、自分自身が神の前にひざまずく意識的な努力をすることなしに、人間が人間に対して何をかいわんや、と感じる部分がある。
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週報コラム

6/5/2016

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お父さん・・・:
プロ野球のドラフト・シーズンの頃、ある新人投手のドキュメント番組を見た。その選手は、自分の才能を信じあきらめないようにと、励まし寄り添い続けてくれた、今は亡き一人のスカウトを恩人として尊敬していた。そして彼はその恩人について、こう語った。『神様というのは言い過ぎだけど、お父さんかな。』 この言葉の背後には、深い親しみと同時に、『目に見える人を神とは呼べない』という潜在意識あると思う。私たちは目に見える現実の中には『神はいない』と思っている。だから、キリスト者が神について語るとき、『お父さんは言い過ぎだけど、神様』と、どこか神を遠くの存在として考えているのではなかろうか。キリスト者が祈りの中で、本当に心から『父なる神よ』と口にするとき、それは『神は今、私の現実にあって、私に寄り添っていてくださる』 という信仰の告白なのである。
<以上>
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カルト的教会からの離脱ーPART2

6/2/2016

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≪今回、予想以上に長文になってしまったので、ご容赦ください:≫

前回の記事では、私が、かつてカルト的教会から離れた経緯について書いた。そのグループと出会ったとき、私はそこで行われていた力強い祈りや、聖書を深く学ぼうとする仲間たちの熱心さに・・・・・・惚れた。そして、その仲間たちと交わりを深めてゆく中で、私の心の中に生じ始めた【異質なモノ】のに気づかずにいた。その異質なモノの正体は何だったのだろうか。今回の記事では、それを取り上げたい。

私がここでカルト【的】と書いているのは、私が関わったそのグループが、キリスト教界において広く一般的に(モルモン教やエホバの証人のように)異端・カルトとは認知されていないからである。しかし、そこで教えられていたことを、以下に列挙する。カルトについての経験と知識がある人には、ピンとくることだと思う。

そのグループは:
 1)独自の聖書翻訳を使い、それが霊的な啓示に基づくものだと主張する。(この時点で赤信号なのだが・・・)
 2)自分たち【こそ】、主が望まれている固有な教会だと主張する。
 3)既存の教会(や聖書の翻訳)は、伝統に毒されていると批判する。
 4)グループの開祖的存在(中国人)の投獄経験等を強調する。
 5)グループ独自の出版物が多数あり、読むことを勧められる。
 
今現在の私の感性からは、上のような特徴を持つグループは危険だと直感する。しかし、自分自身の信仰に具体的な確証と表現を求めて【さまよっていた】私の心は、その危険を感知できなかったし、意図的に無視していたのかもしれない。何が危険かというと、上のような特徴を有する集まりは、次のような段階を経て人の心を苛むからである。(注意: 筆者はカルト問題に詳しいわけではないので、あくまでも自身の体験の範囲での考察であることを前もって理解した上で、読んでいただきたい。)

STEP-0
最初に、グループには、笑顔と、豊かな祈りの言葉と、楽しい賛美と、食事などによる、愛の表現があふれている。まず、そこに人間同士のつながりとしての楽しさと魅力があり、惹きつけられた。

STEP-1:
独自の出版物に神の真理があると主張する(あえて他には真理はないとは言わない)ことで、ひそかに、無意識のうちに、言論統制、情報操作、意識改革が行われた。現代においては、【出版された書籍】に、ほぼ自動的に信ぴょう性を認めてしまう風潮があることも一因となって、ちょっと変だなと思わされる教えも、受け入れてみようという気持ちになってしまった。偽りの信頼性である。

STEP-2:
自分たちの独特な正しさを、聖書を解釈して主張するので、キリスト者であった私には、それが強い説得力となって迫った。伝統キリスト教会が救いの条件としている主イエスの十字架、復活、昇天などの事柄は全く否定しないので、正当な教会の集まりだという印象が強くなった。グループへの信頼が固まり始めた。

STEP-3:
その信頼感と聖書の解釈をバックに、既存の伝統的な教会を自分たちより 【ワンランク下】の正しくない教会と位置づけるので、そこ(在籍している教会)に連なり続けることで、自分は真理を見逃している・取り逃がしているのだ、という不安があおられ、転会を考慮するようになり、同じように転会を促したいという気持ちになった。

つまり、愛が不安を生じさせたのである。これが、前述した【異質なもの】の正体だ。言い換えると、そのグループと私との間に一種の取引が生じていたということだ。すなわち、私はそのグループの中で何かを得るために、何か大切なものを代償として失ったのである。 取引の対象として私が手に入れたのは、活き活きとしたキリスト者らしく見える宗教的な自己表現と、信仰の内的な確信があふれていると感じることのできる、一つの【場】だった。 しかし、その代償として、私が失ったのは、神に無条件で恵みによって愛されるという、かけがいのない【心の平安】だったのである。

言い換えれば、私は、このカルト的クリスチャン・グループと関わることで、一方で喜びを与えられながら、他方で【ここを離れられない】という不安に落ち込んでゆくという、隷属的な関係を体験していたのである。それは信仰には異質な、主イエスの愛とはまったく関係のない、人が人を支配しようとするプロセスだったのである。そのように、人の奴隷になりつつあった私の心を我に返して解放したのは、【なぜ、そのグループでなくてはいけないのか?】という、たった一言の、問いかけだったのである。

今にして思えば、大変に貴重な体験を通されたのだと思う。
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カルト的教会からの離脱ーPART1

6/2/2016

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今朝の早天祈祷会の後に雑談したことを記録しておきたいとおもって、このブログ記事を書いている。筆者は、キリスト者になってから12年後くらいに、信仰について真剣に考え始め、色々な葛藤を通された。その一つが、カルト的教会との出会いと交わりであった。

キリスト者は、生涯求道者だと思う(その意味では、洗礼について考え中の人を求道者と言うのは、まったく正しくない。洗礼は何かの始りであって、何か求めた末の到達点ではないからだ。それはさておき・・・)キリスト者は、自分自身のあり方に、決して満足しないで、常に何かを求めている。それは今でもそうである。 しかし、カルト的教会とかかわった当時、私が求めていた者は、【私はキリスト者だ】ということを、具体的、かつ実行的に【確証】してくれる何かだった。その乾いた心の部分(不安)に、カルト的教会は一時の答えと満足感を与えてくれたのだ。

その教会では、激しい祈りをする。祈りは一人が延々と祈り最後にアーメンというものではなく、一人の人の祈りの言葉が会衆のアーメンによって支えられ、一言ずつ祈りがその場で作られてゆくという感じだった。例えば、誰かの癒しを祈るならこんな感じだ:

私:父なる神様、御名を賛美します。       会衆:アーメン。
私:神様、だれだれさんが病気です。       会衆:アーメン。
私:神様、あなたには癒す力があります。    会衆:アーメン!
<このあたりで感情が高ぶってくる>
私:神様! あなたには癒す力があります!  会衆:そうです!アーメン!
私:神様!癒してください!             会衆:アーメン!

このような祈りの中には会衆との一体感があり、個人の祈りが共同体の信仰によって支えられる。そのような祈りは、自然に賛美にも似た、声をはっきりと出して力強く言葉を発するものとなる。・・・私は、そのような、教会との一体感に満足を覚え、陶酔した。そこには、伝統的な教会のありかたには見られない、何か新鮮で、魅力的で、そして・・・・【異質】な何かがあった。その異質さが何であったかは、後日、PART-2 で書きたいと思う。

そんな、【このグループにしかない】と思われるさまざまな活動と、そこで得られる満足感に惹かれて、私はこのカルト的教会と1年ほど交流した。その様子を傍から見ていたある友人が心配して、ある日、私に、こう質問した。

【なぜ、そのグループでなければならないの?】と。

私は、その問いかけに、心の中でこう答えた。

【そのグループにいなければ、神の恵みから落ちる。】と。

私は、そのように、【神様の恵み】を、特定のグループや、特定のキリスト者の【あり方】に限定しようとした自分自身の心を見たとき、我に返った。・・・そのように、人間的なものを頼りにして神様の恵みを引き寄せようとしたり、他の人から奪おうとしたりする心が、自分自身の中に芽生えて根を張ろうとしていることを示された時、その瞬間、私の心はこのカルト的教会から決別したのである。・・・【私は、そこにい続けてははならない。】と。その決別の出来事は、憎しみではなく、悲しみを伴ったものだった。親しくなった友人たちを捨てたのだから。

今振り返ると、この自己の心の内観と吟味と、瞬間的・決定的な人との決別の決意は、【奇跡】と言って良い、聖霊の導きだったと思うのである。自分が求めているものと真逆のものを得ようと躍起になっていた自分に、神様がSTOPをかけられたのだ。それも、人間的な正論や、カルト批判の長々しい説明や説得や説教を通してではなく(そういうものを通しては、人は逆に執着する)、たった一言の問いかけによって、私の心の奥深いところに潜んでいた罪を、無理やりではなく、自分自身で、無意識のうちに掘り起こさせて、明るみに出し、私自身を愕然とさせる出来事を、神様は創造して下さったのである。

次回、PART-2では、このカルト的教会が、外見的には素晴らしく力強く霊的に優れていると見える色々な行為の背後で、私の心に教え(植え付け)ようとした異質なモノの正体について、少し詳しく考えてみようと思う(いつになるかわかりませんが)。
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週報コラム(新約聖書は写本の写本の写本・・・)

6/1/2016

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2016年 5月29日週報のコラム:

聖書の豆知識:新約聖書は、原本が書かれた時から数百年に渡って、人の手で写され、回覧され、その写本が再度写され、回覧されてゆくという過程を通った。現代ではギリシャ語のもので5800程度の写本が残存する。聖書学者たちは、膨大な数に上るこれらの写本を比較照合し、最も原本に近いと考えられる記述を写本から寄せ集めて合成することで、聖書の『底本』を定めている。そのギリシャ語の『底本』の翻訳が、私たちの手元にある『新約聖書』である。新改訳聖書の中で『写本・異本では~』という注釈を見かけるのは、このためである。(例:ヨハネ8:53)
<以上>

追記:
聖書学者たちが、写本を比較照合して底本を定めるとき、例えば、同一の箇所を書き写したと思われる、内容が異なる二つの写本がある場合を考えると、『長く、冗長で、人間的な説明や解釈を施したような写本の内容は採用しない』というわかりやすい基準がある。だが、そのような基準だけで機械的に底本が決定する訳ではなく、それぞれの写本がどのように関連しているか、それぞれの写本の相違がどのような歴史的過程を通して生じてきたかなどが精査される。聖書は、その意味で、筆者の知識の範疇をはるかに超えた学問の世界における努力の結晶なのである。・・・その意味では、『聖書は神の言葉である』という一つの宣言の意味を、じっくりと考えてみる必要があるだろう。

聖書の文字としての姿は、原本の発生という点では『人間の心の吐露』であり、そして写本からの原本の逆算(底本の作成)という点では『人間の学問的努力』の結晶なのである。そして、その過程において、人間の心や行いや思惑が深くかかわっているのである。

キリスト教に批判的立場をとる人たちの中には、そのような聖書の存在にかかわっているヒューマン・ファクターを理由に、聖書は権力者が弱者を支配するために人為的に改ざんされたものであるとする意見がよくある。その批判の是非はさておき、『聖書が神の言葉である』という一言の意味は何だろうかと、きちんと考える必要はあると思う。聖書を客観的に自分の外側に存在する物体として位置づけて、客観的な権威として自分自身に、また他者にぶつけられているだけのモノなら、確かに、前述のような批判は免れない。

ここで一つの問いかけをしたい。
 『聖書のみことばは、私の中で神の言葉となったか?』

確かに自分を生かす言葉を、私たちは聖書と向き合う中で聞いているだろうか。それも、人生の処世術ではなく、幸せになれる方法でもなく、根源的に自分を生かしている、創造主である神の言葉として。その言葉を聞いたとき『聖書は神の言葉です』という一言の重みは、変わってくるのではなかろうか。・・・そもそも、私たちは、聖書に客観的に権威を認めたから主イエスを信じたのではないはずだ。主イエスを信じたからこそ、書物としての『聖書』が、初めて『聖なる』書となって私たちに迫るようになったのではなかったか・・・?
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