大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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週報コラム(6月25日)

6/25/2017

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クリスチャンは、よく「救いに、~は必要か?」と議論し、聖書と神の名によって激しく争い合う。しかし、「救いに、~は必要か?」という問いは(その「~」が何であれ)、結局は人間の肉体の行動について論じている訳で、それは、「神が人間のためにしてくださった御業」としての主イエスの十字架に、人が何か付け加えなければならない功績があるのではないか?と考えていることである。それはキリストの十字架を貶めることである。十字架で死んでくださった主イエスは、肉体において無力にならり、その上で、「ここに神の力が働いている!」と示しておられる。神は、人間が何かを行ったからお救いになるのでは無く、むしろ、何もできない無力な者を、キリストを信じる信仰のゆえに、お救いになるお方である。その救いの原理を信じるなら、「救いに、~は必要か?」という議論はまったく意味が無いのである。
​<週報からの引用終わり>

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追記:

教会が一つになる方法は、一つである。それは、すべてのキリスト者が、主イエスの十字架の前にあって、主イエスご自身のようになりたいと心から願うことである。それは、人間的な一切の正しさ、強さ、主張、すべてが放棄されることに他ならない。

聖書を理性的に読んでその唯一の意味を正確に導き出し、それを守ろうとする事は、教会を排他と分裂へと導く。なぜなら、人の理性そのものが、すでに神の御前にあってねじ曲がった状態にあるからである。その問題に気づかず、依然として聖書的であろうとすると、結局、自分の正しさに固執して終わる。

自分の一切の正しさを、すべて、放棄する事。そして、唯一の正しいお方として主イエスをあがめ、聖霊の働きにゆだねること。それ以外に教会が本当の意味で一つとなることはできない。

なぜ、教会は一つになれないか。それは聖書を理解していないからである。それは、自分を殺すことができないエゴに頼って聖書を読んでいるからである。しかし、エゴを殺すことは、人間が最も恐怖する事である。

教会がなぜ成長しないか、なぜ統一されないか、なぜ愛し合う交わりが生じないのか。その問いは、人間的な手法や、歴史的な考察や、改善の努力によって解決される問題ではない。自分に死ぬことができないエゴに支配された人間の根源的な心の問題である。

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週報コラム(6月18日)

6/18/2017

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ルカ8:26-39の不可解さの一つは、主イエスが悪霊たちを「底知れぬ所」に送らず、むしろ、彼らが地上で活動し続けることを許してしまうことだ。「神が愛なら、なぜ人間が苦しむことを許されるのか?」…しかし、この問いに聖書は答えない。なぜなら、聖書のテーマは、「人間が、どのようにして幸せになるか」では無く、むしろ、「神が、どのように人間に信仰を求めておられるか」という事だからである。その信仰のために、神はエデンの園に「善悪の知識の木」を植え、アブラハムを試み、そして、御子イエスの十字架の死と復活を人類に啓示なされた。それは、たとえ理不尽や苦しみに満ちた現実の中にあっても、その只中で、人が心から神の愛を信じ、神を愛することを積極的に選び取るためではないだろうか。
<週報からの引用終わり>
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追記:

聖書は、人間のもつ様々な問いには、逐一答えない。

「神は、なぜ苦しみを許されるのか(why does God allow suffering?)」 その問いに聖書が答えないので、「神は愛なり」という一つの聖書の宣言の信ぴょう性を疑う。人間的な論理だけ考えるなら、それは正論であろう。正論には、反論しない方が良い。だから、何とかして聖書から、神が苦しみを許される理由や動機を、神の愛(つまり神は人を苦しめないという意味での愛)と整合させて説明しようとする努力は、不毛である。そこには矛盾しか生まれない。

聖書が答えようとしていない問いに、聖書に答えさせようとすると、空回りするだけである。

しかし、聖書は、人間の持つ様々な問いの中で、その関心事を根本的に転換させるために力強く語る。

それは、私達の心が主なるキリスト・イエスを信じ、愛し、慕い、永遠に共に居たいと願わせる心、すなわち信仰を生じさせるために、すべてが在るという事である。被造物も、苦しみも、悲しみも、喜びも、楽しみも、そのすべてがである。

それが、聖書のメッセージなのでは無いか。そのメッセージを認める時、「人はなぜ苦しまなければならないか」という一つの問いに、一つの答えが提供される。・・・人がその苦しみの中で、神を信じる為・・・である。

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週報コラム(6月12日)

6/12/2017

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10年以上昔の話だが、私は「イスラムの神アッラーもキリスト教の神も同じだ」と教えるクリスチャンに対して激しく怒ったことがある。しかし、たとえ聖書的な根拠があったとしても、その激しく怒った私は、神の前に決して正しくは無かった。なぜなら、私の言動に、神と人に仕えようとする愛が欠けていたからだ。神と人への愛が伴わない言動の一切は、神の前には虚しく無益である(Iコリント13)。 人間が聖書を1ページ、また1ページと調べ、理論を綴り合せ、その結果、神の恵みと愛ではなく、自分や他者の善悪を論じようとするとき、それは「善悪の知識の木の実」を食べたアダムとエバが、自分の罪を覆うために、いちじくの葉を一枚また一枚と綴り合せている姿と重なるのではないだろうか。(伝道者)
<週報からの引用終わり>
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人は、神の前にあって、自分を正しくしようとすることを、一旦、止めなければならない。本当にやめるのである。自分の努力を通して、自分と、自分の周りにある条件や状況を、より聖書的に改良、改善、改革しようとする一切の努力を、一旦、やめるべきである。

これは、努力そのものを放棄せよという事では決してない。しかし、その努力の方向性と尽力する目的を、きちんと見直す必用が、それこそ毎日の悔い改めとして、あるという事である。

自分が聖書に照らし合わせて正しいと宣言する瞬間、その人は、同じ聖書に照らし合わせて、自分は正しくないという事も、同時に宣言することになる。それは、自分の善悪を、外的な基準に照らし合わせて評価しようとする心において、同じだからである。聖書の通りに行っているという事を誇る者は、同時に、その聖書によってその他の聖書の通りに行っていない自分の行動を責められるのである。そのように、自分の行いの誇りと、裁かれる恐怖の中で生き続けることほど、キリスト者にとって、苦しいことは無い。

キリスト者は、十字架で人間的には全く無力になられ、律法に照らし合わせれば罪びととして裁かれ、人間的な誇りや正しさなどの一切がはく奪されたキリストを、栄光へと復活させられた父なる神の力を信じているのである。それならば、人間が自分の正しさを一旦すべて放棄する事は当然のことであり、その無力の中にしか、神の力は働かないと信じることも当然なのである。・・・なぜ、そうすることができないか。

それは、私達一人ひとりが、パリサイ的律法主義者だからである。本当に戦わなければならない相手は、異なる聖書解釈から異なる伝統文化の下で神を礼拝しているキリスト者の同胞たちではない。自分たちの中にある、パリサイ根性と戦わずして、正しい教理も、正しい形式も、正しい聖書解釈もへったくれも本当は無いのである。

戦いの剣を向ける相手を間違えてはならない。

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週報コラム(6月4日)

6/4/2017

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心の中を探る言葉:レストランで注文と違う品が出てきた時に怒る者は、「自分は客だ!」と主張する「エゴ」に心を支配されている。しかし、同じ料理でも、もしそれが王の息子の結婚式の宴席で出てくれば、その人は、招かれた者として、王の前にへりくだって、何が出てこようとも王に料理の手配をゆだねて、喜んで食べる。このように、その人の心の場所によって、同一の現実に対して異なる応答が生ずる。同様に、キリスト者の心も、その信仰の場所によって、自分たちの危機に際しての応答が違ってくる。すなわち、自分のエゴに座している信仰は、危機に対して焦り、恐れ、怒る。しかし、神を信じる信仰の中に安息している者は、神に自分の運命のすべてを、ゆだねるのである。
<週報からの引用終わり>
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追記:
​上の文章の最後に、『
しかし、神を信じる信仰の中に安息している者は、神に自分の運命のすべてを、ゆだねるのである。』 と書いたが、これは、決して、『神を信じる信仰の中に安息している者は、すべての痛みや苦しみさえ、もう感じなくなる』という事ではない。

人間が人間である以上、そこには、必ず、『生きる痛み』がある。『痛みの中にあって、神に運命をゆだねる』という事は、その痛みに対して無感覚になることではない。苦しみや悩みに無感覚となることが、信仰の成熟した姿であるという事では、決してない。痛みのなかにあってさえ、いや、痛みの中にあるからこそ、自分自身を主なる神にゆだねるという、積極的な信仰のことを言っているのである(多分、そういうことを言いたいのだと思う)。その神に対する積極的な信仰は、より深い信仰へと人を導き、その導きの中で、その人は、神に心を満たされるという体験を与えられてゆくのである。

痛み、信じ、ゆだね、満たされ、そして痛む。その繰り返しの中で、人の心は、神を信じるものへと、練られてゆく。そして、過去と同じ痛みの中を通らされても、その痛みに対する自分自身の応答に仕方が、明らかに違ってくる。それは神から来る満たしを求める信仰による応答である。

その応答は、あたかも、過去の痛みをもう感じなくなっているという錯覚を生じさせるかもしれないが、実はそうではない。痛みは、恐れは、焦りや怒りは、心の中にある。ただ、それらが、より大きな神の力と慈しみによって覆われてしまっているだけなのである。

それゆえ、一度信仰を持ち、神の愛と慈しみを味わった上で、信仰の成長を経験した上で、もし、主イエスへの信仰を捨ててしまうなら、その人の心は、それこそ瞬間的に、以前の痛みと苦しみの中に逆戻りしてしまうのである。・・・信仰を捨ててはいけない。

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    教会のフルタイム 伝道者。

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