マタイ18:15-17で主イエスは、罪を犯した仲間に悔い改めを求めても応じないなら、その人とは絶交しなさいと言われます。文脈を無視すると、これは教会で罪を犯した人の追放の手順となります。しかしこの教えの背後には人間すべてが絶望的に大きな罪を神の恵みによって赦して頂いたという姿(v.23-35)と、神の御姿であられる主イエスが教会の中に必ず臨在しておられるという現実(v.20)が教えられています。その文脈を考慮すると本箇所は罪びとの追放手順ではなく、むしろ、神の恵みの御前にあって人が互いを赦し合う努力を続けよと教える、赦しの心への招きとして理解できるのです。人がキリストの御霊を持つなら、このマニュアル以上のことを行うようになるのです。■
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使徒行伝2:37 で、ユダヤ人たちは「私たちはどうしたらよいでしょうか」 と問います。この一節から「救われるために人は何をするべきか」という論理が始まりますが、それは、「救われるために人には何かが出来る」と思っているからです。しかし聖書の人物たちはそんな心で「どうしたらよいのでしょうか」と言ってはいません。彼らは、神の御子を殺害するという取り返しのつかない重罪を犯し、もう自分で自分は救えないという絶望に心を刺し通された痛みの中から、「どうしよう!」と叫んだのです。それは、神の慈悲にすがるしかない無力な人の姿です。依然として「救われるために私には何かが出来る」と思い続けるなら、この一節の意味さえ理解できないのです。神の恵みの必要に対して目を閉ざした心から聖書をどんなに論じても、それは不毛な結果に終わるのです。<週報からの引用終わり>
マーク・グンガーという有名な講演者がいます。彼によると、男女の脳の働きはとても異なるそうです。家庭、仕事、財産など、色々な生活の課題がありますが、男の脳には個々の課題に一つずつ「考える箱」があり、一つずつ課題に取り組みます。女性の脳は電線のかたまりのようなもので、「感情」という電気信号が駆け巡り、様々な課題を同時に考えるそうです。男女間で話がすれ違うのも無理はないという訳です。クリスチャン同士も、すれ違います。そして争います。それは心の中に、大切な一つの事を入れる一つの箱が無く、大切な一つの事を感じる共通の電気信号が流れていないからです。その大切な一つの事とは、キリストの十字架を通して現わされた神の恵みと愛です。<週報からの引用終わり> 英語で”Beauty is only skin deep” という慣用句があります。日本語では「美しさは皮一枚」。人の真価は、内的・精神的な美しさにある、という意味です。教会は「皮一枚」? 教会が会堂を建て、若い人の数を増やし、宗教的活動に従事することが、もし、「私たちが美しくなるために」という動機から生じているなら、そのような教会は「皮一枚」です。十字架に心を打たれ、聖霊によって励まされ、父の恵みを信じる歩みを通して練られた品性が欠けた、空っぽの教会です。しかし困ったことに、罪びとである私たちは、その神不在の空虚さこそを、教会の美貌として求めてしまうのです。
<週報からの引用終わり> 地球は平面だと本気で考えている人たちが現代にもいるそうですが、実際に世界が平面なのか球なのか、どちらを信じるかは、私たちの日常生活に影響を及ぼしません。しかし、航空宇宙関連の仕事をする人たちにとっては、地球の形状は彼らの思考、判断、行動を支配する原理としての重要性を持ちます。「キリストの十字架」についてはどうでしょう。十字架は、私たちの思考、判断、行動を支配する原理的な重要性を持っているでしょうか。もし無いなら、クリスチャンの十字架を掲げるその信仰は、未信者の目から見れば、「地球は平面だ」という主張のように、ただ不可解なものとみなされてしまうのではないでしょうか。 十字架は、「わたしの十字架」になっているでしょうか。<週報の引用終わり>
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February 2021
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