大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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週報コラム(7月31日)

7/31/2016

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讃美歌の『アーメン』:
讃美歌では、いつも最後に『アーメン』と歌う。筆者は、最初、これはワンパターンで不必要だとさえ思った。しかし、讃美を歌うということの本質が、会衆が心を一つにして唯一の神を賛美することだとしたら、この『アーメン』は、信仰のエッセンスが凝縮した、きわめて重要な一言なのである。 『アーメン』とは、天におられる神が賛美されるべき偉大なお方であるということに、個々が会衆と共に『しかり・その通りである』と同意する、信仰告白だからである。言い換えると、『アーメン』とは、本質的には、偉大な神に自分自身をささげる献身の言葉であり、讃美歌の最後にあたって、それぞれが全身全霊で歌う価値のある、ふさわしく、重く、そして素晴らしい一言なのである。
・・・アーメン・・・!
<引用終わり>
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ポケモンGOと、キリスト者の信仰について

7/27/2016

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ポケモンGO!が、なぜこれほど爆発的な人気を博したのか。あくまで素人の考えだけれど、たぶんそれは『解放』がそこにあったからだと思う。ここでいう『解放』というのは、今までポケモンというゲームは、プログラマーが作った、コンピュータの中の小さな箱庭の世界を画面越しにのぞき込んで、その中で活動するキャラクターを、ボタンを押して操作するという、非常に窮屈な環境の中で、ユーザーは仮想的にロールプレー(Role Play)することしかできなかった。しかしそれに対し、ポケモンGO!は、その窮屈さからユーザーを解放する。すなわち、ゲームの遊びが、自分の世界と日常の中にあり、自分の五感と四肢すべてが活動する、実体を伴った一つの『体験:Experience』になった。言い換えると、今までは、自分がゲームの仮想世界の中に入り込み、その中で自由を束縛される存在だったのに対し、ポケモンGO!では、むしろ、ゲームの世界(やキャラクタたち)が自分たちの世界の中に、自分を楽しませるために、やって来てくれたのだ。

ところで、これがどうしてキリスト者の生き方に関わる事柄なのかというと、キリスト者の『解放』が教会にも生じて欲しいと、私は願うからである。それはどういうことかというと、先ず現状としてキリスト者がどのような環境の中に生きているかというと、自分自身の信仰者としての生き方が、『教会』という一つの場所(建物)や、『キリスト教』という一つの確立された宗教という、人が作り出した一種の『箱庭』の中に窮屈に押し込められているかも知れない、ということである。 しかし、ポケモンGO!が実現した、ゲームのユーザーの解放と似たことがキリスト者に起こり得るし、起こらなくてはならないと思うのである。

それは、教会のかしらである救いぬし、主イエス・キリストが、教会という場所や建物、また、キリスト教という宗教の枠組みの中を出て、キリスト者自身の世界と、その毎日の日常の中に、その五感と四肢のすべてが関わる実体を伴った出来事を通して、人と寄り添って下さるお方になって欲しい、ということである。いや、むしろ、そのように、人に実際に寄り添い共に歩んで下さるお方として、キリスト者は、主イエスを再認識しなくてはならないのではないかと思うのである。

そこには、『解放』がある。しかし、それは人間が好き勝手に生きるという解放ではない。むしろ、人間の生きるいかなる場面においても、いかなる時においても、そこに、主イエスがおられるという、主イエスの行動範囲の完全な解放である。その、解放された神様の御働きの中に私たちが招き入れられるとき、私たちのキリスト者としての生き方も解放される。もう、教団や、教派や、特定の場所に束縛されずに、今、ここで、自分が生きているところで、主イエスも共に生きておられ、自分は生かされているのだという、解放である。

その、解放された主イエスのご臨在により、同じく解放して頂いた自由なキリスト者として、みんなで集まって神を賛美し、救いを感謝し、神の愛をお互いに確認し合う一つの出来事。それが、主日の礼拝であるなら、教会という建物に特定の日に集まることは、キリスト者として、この上ない喜びとなり、励ましとなり、生きる上で必要不可欠な体験となるはずである。それは、かしらである主イエスのご支配の下、私たちが招かれ、呼ばれ、集められるという、神様の救いそのものととしての出来事が、そこに生じているからである。

・・・教会に毎週通ってさえいればキリスト者なのだ、というのは間違いだ。そのような考えは、日常において、キリストと共に歩む信仰が欠落しているからだ。しかし、信仰さえあれば教会になど通わなくても良いと思うのも、間違いだ。その思いの中には、ご自分の民をキリストにおいて集めて下さった、神様のみわざへの畏怖と、神が愛された者達への愛が欠落しているからだ。前者は人間の作った箱の中に神を押し込み、自分もそこに閉じこもること。また、後者は、自分の世界の中に自分を押し込み、閉じこもって、神と神の民を自分の日常から締め出すことだ。どちらも、窮屈でしかない。その窮屈さの中で、窒息する危険がある。私は、窒息したくない。

教会を出よう。
しかし、教会に行こう。

本質的には、キリストGO!
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週報コラム 7月24日

7/24/2016

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ポケモンGO!
話題沸騰中のスマートフォン用ゲーム。「TVゲーム」は、もう、仕事の後に家に帰ってから楽しんだり、休日に思い切って一日中没頭したりするものではない。人たちは、携帯電話にゲームをインストールし、それを肌身離さず持ち歩き、朝一番に、通学中に、授業の合間に、お昼を食べながら、帰りの電車に揺られながら、晩御飯食べながら、そして寝る前にと、生活の中でちょっとずつ、でも一日中、大好きなゲームと触れ合う。つまり、現代の「TVゲーム」は、もう人の日常の【外】にあるおもちゃではない。むしろ、生活の隅々にあって、人がいつも関心事として心に納め、思いを巡らせるという、日常の【中】にあるもの、あるいは日常【そのもの】としての地位を得ているのである。・・・キリスト者にとって、キリストと、キリスト者との交わりは、本来このような日常の【中】に地位を占めるべきものなのである。
<以上>
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次回、ポケモンGO を例として、キリスト者の生き方について、ちょっと考察します。
では、またね!
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蘇る記憶(その2)

7/15/2016

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神が自分を愛していて下さり、そして、自分が神を愛しているという、この瞬間において信じている事柄は、実はもっと昔の、どこかで起こった、自分と神様の出会いにその原点があるかもしれないという、一つの思い。その出会いは、自分の記憶から消し去られてしまっているけれども、その記憶の片鱗を、、今、神様と自分との愛の関係性を信じて喜ぶ時、わずかながら感じているのではないかという思い。神様の愛の深さ、広さ、素晴らさが、実は自分の想像を絶するものであることを、信じようとする、信じたいと願う、その思い。

その思いは、神様の愛について、何か理論的に、神学的に、倫理的に説明を施して、『これこそ神の愛なり!』と満足してしまおうとする心にブレーキをかける。ブレーキをかけて、立ち止まらせ、そして振り返らせる。振り返った先に見えるのは、大宇宙を見上げるような、深淵な暗闇と、呑まれてしまうような広さと、まばゆいばかりの星々の輝き・・・。もっと先がある。もっと広さがある。もっと何かがある。求め続けても到達できず、到達できずとも求めずにはいられない。そのような追求の対象としての神の愛。人間のあれこれの追求の努力を、いともたやすくご破算にし、粉々に打ち砕き、吹き飛ばしてしまうほどの破壊力。それでもなお、人を立ち上がらせ、新しい命を吹き込み、ご自身の愛を追求させる力を満たして下さるお方の恵みの力。それが神の愛。

そこには、もう、『人が神を愛そうとする努力』が無意味に感じられてしまうほど、『人を愛される神』が主権者として君臨されるだけの世界がある・・・はずだ。そのような愛を、私はどう表現したらよいのだろう。

使徒パウロは、ローマ人への手紙9:11において、こう綴っている:
『・・・その子供たち(ヤコブとエサウ)は、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召して下さる方によるようにと・・・』

神は、人間が何か良いか行いをしたから愛するのではない。また、何か悪い行いをしたから愛さないのではない。神の、人間への、いや私自身への愛、そしてあなた(このブログの読者の方)への愛は、神が『わたしは、あなたを、何が何でも愛するのだ。』と選ばれた故に注がれているのであって、その選びの計画の確かさは、ヤコブとエサウの時代よりもずっと前に、すでに神のお心の中に確立していたと、そう信じてよいのである。

神の、私たち一人ひとりへの愛は、この世界と時代にあっての私たちの(物理的)存在よりもずっと古い。私たちは、私たちが存在さえしなかった、人間の認識を超えた古の時代に、すで神に愛されていたということになる。私たちがこの肉体において理解できる自分自身の存在が、私たちの存在のすべてではない・・・ということになる。 私たちは、本当には、神様の御前にあって、一体どのような存在なのだろうか・・・。
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よみがえる、記憶。

7/8/2016

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愛された記憶

筆者は今、教会の仕事から休暇を頂いて、第二の故郷となったアメリカの家族と友人たちを訪ねている。あと数日で日本に帰ることになる。この旅行は、休暇であるのと同時に、自分がどこからきたのか(どのような経緯で今に至ったのか)を再確認する、自らのルーツと再会する時となっている。

人と再会し、そこに友情と愛を感じる。車を運転して街をめぐり、その地形、様相、交通ルールを感じ取る。その再会の場面に、何かを感じ取る。思い出がある。つまり、今この瞬間自分が感じていることは、過去の経験への回帰であると言える。「今」は、過去の記憶の中にあって位置付けられ、体験となり、経験として蓄積されて行く。

過去と切り離されて、単独で意味を持つ「今」は、実は存在しないのだと思わされている。逆に、過去の出来事も、今の体験の視点からその意味が再吟味されることがある。そのように、過去と現在の体験は、ひとつの循環を形成し、その循環の中で人は生きて、何かを感じ取ってゆく。そして人格を形成され、自分の存在の意味がについて知ってゆく。

このように、自分の過去と現在を感じ取ろうとする中で、なぜかふと「神への愛」について考えた。

今現在、私が「私は神に愛されている。神は私を愛しておられる。私は神を愛している」と告白する時、そのひとつの出来事は、いかなる「過去」の中に位置付けられるのだろうか。そして、その過去は、どこまで遡るのだろうか。今現在、愛すること、また愛されることは、愛し、そして愛された過去への回帰だとするなら、自分が神に愛されていると感じたその過去に一度起こった最初の瞬間、その最初の出来事は、どこにあるのだろうか。

いま、自分が神の愛について語るのは、自分は、自分では知りえない遠い過去から、神に愛され続けてきたということの記憶であるとしたら。また、自分では知りえない時から、神を愛し続けてきたことの思い出だとしたら。神の愛とは、そのような、人知を超えた広がりと深みと高さがあるのだと思う。しかし、人は、その捉えきれない神の愛を、キリストイエスの十字架を通して信じている。

キリストイエスこそ、神と人とを結びつける、その結びつきを人がその目で見て、その手で触り、確かな出来事として確認できる、神様が下さった手がかりなのだ。

このことについては、次回の記事でも触れてみたいと思う。
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