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週報コラム 8月28日

8/28/2016

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預言者の苦悩: 『預言者』は神から言葉を預(あず)かり、その言葉を、神が愛する人々へと語る使命を帯びた。預言者は神の民に悔い改めを語る。しかし、民は悔い改めない。結果、民は外国の侵略によって滅ぼされてしまう。その様子を見て、預言者は深く嘆く。いつもそうである。その嘆きは、特に エレミヤ20:14に絶望的な苦悩として語られている。『私の生まれた日は、呪われよ!』と。しかし、この苦悩に満ちた言葉は、どれだけ語っても、ご自分のもとに戻ろうとしない民と、滅びてゆく彼らの姿を見て深く嘆かれる、神のご自身の御心を反映している。預言者の苦悩は、神の苦悩なのである。
 
<以上>

追記:
上の記事は、実は説教者が説教の中で言及したかったけれども時間の制約からそれができなかった部分でもある。預言者にはある一つの共通点がある。それは、神が彼らに言葉を与えて民へと遣わされるとき、それは民が悔い改めて神と和解するという素晴らしい出来事が起こるということを決して前提にはしていないということである。むしろ、その逆で、神は、預言者を、反逆することが分かっている民へと遣わされ、預言者は、その結果、決まって、苦悩の底に陥るのである。

主イエスも、預言者として同じ状況に陥ったのである。主イエスの十字架は、民による、神の預言者に対する反抗の極みである。それまでの、民イスラエルの神の預言者たちに対する度重なる反抗の歴史を見れば、十字架は神の想定外の出来事などでは決してなく、むしろ、主イエスが神の子であるが故、運命的な不可避な出来事であったといえる。

十字架は、決して、事故ではない。

神が『遭遇』した出来事ではない。

神が望んで予定したことでもない。

神が神であり、主イエスが神の御子であり、人が罪人であるが故に、

必然的に起きた出来事なのである。

そして、そのように、人の罪ゆえに必然として起こった出来事によって、同時に、神は人間を罪から救ってくださった。

それは、神の恵みと愛が、人の罪よりも大きく、罪を飲み込み、罪に打ち勝っているからである。

主イエスの十字架は、救いの現れそのものなのである。
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週報コラム 8月21日

8/21/2016

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私たちの父はアブラハムだ! アブラハムを先祖として持つことは、ユダヤ人にとっては、『自分たちは神に救われている』という誇りそのものだった。その誇りをお互いに確認し合い、スクラムを組んで、『イエス様、私たちにはあなたの救いなど必要ありません!』という態度ではいけない!それは危険だ!と、ヨハネは(ルカ3:8で)警告する。自分たちの伝統や聖書理解の正しさをお互いに確認し合い、それを誇りとし、イエスさまの声にさえ耳をふさいでしまうとき、教会の足元には、神の裁きが迫っているのである。
<以上>

追記:
筆者は、今週、説教個所の ルカ 3:1-14 と格闘する中で、一つのことに、改めて気付いた。それは、自分自身の心は、自然と主イエスから離れようとするものだということである。「悔い改めとは何か」と考えているとき、心の思いは、すぐに、自分自身の行いの正しさや間違いの問題に傾いて行ってしまう。そして、その人間の間違った行いに対する罪悪感や、正しい行いの誇りの中に、主イエスが消えてしまうのである。主イエスが消えたところには、もう救いはないのである。
Picture
神様は、主イエスにあっては、もう、人を、その行いの善悪によっては評価なさらない;裁かれもしないし、祝福もされない。悪を行ったという理由で人は滅ぼされないし、また善を行ったという理由で人は救われない。神様が求めておられるのは、私たちが主イエスを見て、受け入れて、供に歩む人生に入ることである。その一つのことを私たちが受け入れるときに、神様の力が私たちの中に働くのである。そして、そこには、神様が望まれる行いが、必然として実として結ばれてゆくのである。その実を見るとき、人は、神の祝福を体験するのであろう。

・・・これは、一つの『賭け』である。

自分が望むように善を行ったり、悪をやめたりして生きて、自分に満足して、そして主イエスを失うか、

それとも、

自分が望むように善を行ったり、悪をやめたりして生きて、自分に満足する自由を放棄し、そして主イエスと供に歩むか。

二つに一つ。
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週報コラム 8月7日

8/7/2016

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キリストとキリスト教:先週、ある方から電話で相談を受けた。キリスト教について知りたい、とのことだった。私:『あなたの父上の名前は?』。彼:『“あきら(仮名)”です。』 私:『あなたが、私に、“キリスト教を知りたい”と言うのは、私が、あなたに、“あきら教を知りたい”と言うのと同じ。私が、あなたの父上である“あきらさん”を知ることを、“あきら教”を知ることにしていしまうのは、変ですよね?同様に、私は、あなたに、キリスト教ではなく、キリストを知っていただきたいのです。』・・・イエス様が復活して生きておられる方ならば、私たちが、キリストを誰かに伝えるとき、『キリスト教では・・・』と話すのは、実は、きわめて不自然なのである。キリスト者は自分がキリスト教の信者だと言うかもしれないが、実際にはキリストの信者なのである。この違いは大きい。
<引用終わり>
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