大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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イザヤ書 第7章について思う事。About Isaiah Chap. 7.

9/24/2015

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『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、
その名を”インマヌエル”と名付ける。
』
・・・イザヤ書 第7章14節。

この言葉を読んでキリスト者が瞬間的に向かうのは、
イエス・キリストである。
その目は一瞬のうちにイザヤ書から離れ、
代わりにクリスマスのイルミネーションがちらつき、
心には、ヘンデルのメサイアが鳴り響く。ハレルヤ・・・。

しかし、イザヤ書のこの預言的な一節は、
少なくとも7章全体の文脈上で先ず理解されなくてはならない。

預言者イザヤが生きた紀元前8世紀、
イスラエル王国は南北に分裂していた。
北は、サマリヤを首都とし、エフライム族を頭とした。
この時代、「イスラエル」というのは、北王朝のことを指す。
南は
、エルサレムを首都として、ユダ族を頭とした。

そして、イザヤ書7章では、
北のエフライムがアラム(シリア)と手を組み、
南のユダに対して謀反を企てる。

南のユダは、
イスラエル(北王朝)と外国の連合軍によって攻められ、
国家存続の危機に直面した。
王にとっては、自分と一族の命の危険が迫り、
民にとっては、奴隷に身を落とす運命が突きつけられる。
国は、恐怖のあまりパニック状態に陥った。

そのような混沌とした極度の不安の中、
主は、イザヤを通して、
ユダ王国の民に対してこう仰せられた。

『静かにしていなさい。』
(イザヤ 7:4)

この一言の命令の背後には、
主がユダ(南王朝)を救うために、
イスラエル(北王朝)とアラムの連合軍を
アッシリア帝国によって滅ぼすという、
神の権威に基づいたご計画があった。
今、アラムと手を組みユダを滅ぼそうと
息巻いて誇っているイスラエルは、
やがて滅ぼされ、荒廃するという、
神の、ユダに対する力強い救いの宣言である。

有名なイザヤ書7章14節は、
その救いの「しるし」であった:処女が男の子を産む。
しかし、大切なのは、
その「しるし」を、
神を信頼せず、主をないがしろにするアハズ王と民の不信仰にも関わらず、
神様が一方的にユダに与えられたということである。

神様が与えた『インマヌエル』のしるしは、
人間がそれを期待していなかった時に、
人間が神に頼ろうとしなかった時に、
人間が自分に頼って滅びに向かっていたときに、
神様が、
ご自分がそうしたいから、そうされたこととして、
人間に与えられた「しるし」であった。

ユダの救いは、
人間的な欲求によってではなく、
主の御心のゆえに、与えられた。
人間にその救いを呼び寄せることは出来ないし、
また差し止めることもできない。

「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」
(イザヤ9:7)

そこに、
神様のご自分の民に対する憐みと、
揺るがない契約に基づく愛が現れている。
この神様の憐みと愛が、
イザヤ7:14から私たちが受け取るべき
中核的なメッセージだと思う。

この箇所がイエス・キリストの預言であるのは、
主イエスが「処女」マリヤからお生まれになったという
表面的な事象の一致があるからだけではない。
このような預言の箇所を取って、
新約聖書と旧約聖書の間に理論的な整合性がある
と主張するのは構わないが、
それに終始してしまうことは、霊的な損失を招く。
すなわち、福音を見逃す。

そうではなく、
私が旧約の預言の成就を新約に見る時、
イザヤがここで預言している主なる神様のお心と、
主イエスを遣わされた天の父なる神様のお心との間に、
人間への憐みと愛というその一つの事柄について、
完全な一致があるという、
主なる神様への私たちの信頼がそこに生まれ、
喚起され、そして育まれるべきではなかろうか。

それが、
イザヤがキリストを予言したという事の背後にある、
私たちへの、
神様のお心なのだと思わずにはいられない。

イザヤ7:14を、
一節だけ文脈から抜き出して、
それを主イエスの預言として読むのは、
正しくないと思う。
あまりに乱暴である。

この箇所から学ぶべきことは、
隣国に責められ、
国の存続を脅かされ右往左往する中にあっても、
なお神に頼ろうとしなかったユダの不信仰にも関わらず、
それを救われた神のご恩寵(おんちょう)の存在である。

そして、その神のご恩寵が現代にあっても確認される
という意味で、イザヤ7:14は預言として成就しているのである。
・・・と私は思う。

つまり、異邦人として神を知らずに生まれ育ち、
自分の人生の中で右往左往する中にあっても、
なお神に頼ろうとしなかった私たち罪人の不信仰にも関わらず、
神様が一方的に、
主イエスの十字架と、
栄光ある復活を通して
私たちを救われた
。
それが、預言の成就である。

この意味で、イザヤ7:14の成就は、
ルカ1:27に止まらない。

イザヤの預言の成就は、
ローマ書 第5章 6節~8節であるとも言えよう。
だが、そこにも止まらない。

神様が、憐みと愛をもって、
私たちを救っていてくださるという事。
それが、
主イエス・キリスト、
すなわち、
主イエス・メサイアなのであるから。

主権はその肩にあり、
その名は
 不思議な助言者
 力ある神
 永遠の父
 平和の君
と呼ばれる。
(イザヤ9:7)

・・・異邦人である私は、この方に、望みをかける。

ハレルヤ。
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む、無理だ。NO WAY。

9/8/2015

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私が仕える群れの
教会総会が近づいている。
あと一か月もしないうちに、
その日はやってっ来る。

伝道者(牧師)の私の役割として、
年頭聖句の選出と、
牧会案の作成がある。

今後一年間、
教会が寄り頼む聖句。
それを、
明日さえ見通せない、
牧会経験わずか3か月の私が、
行うというのだ。

まじですか?

これは、
新入社員に、
会社全体の年間スローガンと
経営方針の原案を作成せよと
求めているのと
同じである。

ここで、
この大役を仰せつかった平社員が取れる
行動はただ一つである。

社長室に殴り込むのだ。

もちろん社長を殴るためではない。
社長に助けてもらうためだ。
同僚に聞いてはいられない。
係長でもだめだ。
課長も、部長も、今回ばかりは頼れ無い。
直接社長に聞くしか、
平社員がこの責任を果たせる道はない。
だって、
平社員なんだから。

私も、
神様に殴り込みをかけるしかない。
聖霊に助けてもらうために。
主イエスに道を示していただくために。

一年後、五年後、十年後、
そういった視野で教会を導けるのは、
主イエスおひとりの他、
誰一人としておられないのだから。

・・・それはそうとして、

年頭聖句を決める習慣って、
いつから、
誰が始めんたんだろう?
新約聖書には、
一言もそういう習慣については書いてないんだが・・・。

神様は毎日新しい御ことばを語られる。
キリスト者の一年は、
年頭聖句が舵取りをするのではない。

むしろ、
毎日示される小さな御言葉連続が、
毎日の舵取りだ。
舵を取られる船は船頭さんの言いなりだ。
今日は東と思ったら、明日は西へ。
東西南北、自由自在だ。
毎日、
神様を見上げて生きることが、
神様にお従いすることが、
キリスト者として生きることだ。

その意味では、
それこそ、
「見よ:Behold!」
の一言で良いかも・・・と
ふと思った。
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如何ともし難い、人間の性質;Really Tough Human Nature

9/4/2015

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神様の恵みは、一方的なものであり、
人間はそれを「受け取る」ことしかできない。

しかし、この言葉には、
一種の「心の罠」が潜んでいる。

「受け取る」という言葉が、
能動としても、
また受動としても解釈できるからだ。

神様の恵みは、
人間が何かの条件を満たして
獲得するものではない。
その意味では、
「受け取る」行為は、受動。

しかし、
人間が目の前にあるその賜物を
つかみ取るという意味では
「受け取る」行為は、能動。

受動と、能動。
どちらなのか。
どちらか一方なのか、
それとも両方なのか。
私たちの頭脳は回転をし始める。
・・・・が、
その回転を(速くなる前に)止めて、
原点に立ち返らねばならない。

なぜなら、
神様の恵みと憐みを受け取る行為は、
「受動」のみだからである。

神様の恵みと憐みの前にある人間の姿は、
聖書では次のようにたとえられている:

①羊飼いのいない羊のように
弱り果て倒れている者。(マタイ9:36)

②へその緒を切り、水で洗って清める者もなく、
産み捨てられた赤子(エゼキエル16)


この二つの例から明らかなように、
神様の御前にあっての人間の姿は、
何かをつかみ取るどころか、
頭をもたげて立ち上がることさえ程遠い、
打ちひしがれて、
見捨てられ、
死を待つだけの存在である。

そのような存在に対して、
「あなたを救う。」
「生きよ。」
と御声をかけられるのが、
主イエスであり、
主エスの御父である神様である。

その御声の中に、
人は恵みと憐みを見出すのであるから、
神様の恵みと憐みは、
人間が一方的に受けるしかないのである。
そうではないものは、
もう恵みや憐みとは呼べない代物なのである。

母親の手に抱えられ
湯ぶねに浸けられる赤子は、
その暖かさをを受け止めるが、
それは
母の手と暖かい湯に
「包まれている」からであって、
その温かみを、
赤子がつかみ取っている訳ではないのと
同じである。

そのようなものが
神様の恵みと憐みであるのに、
それがいつの間にか、
人間が勝ち取るべき対象として
勘違いされてしまう。
なぜか。

それは人間が、
「無力である」ということを
頑として認められない
認めてはならない
性質にどっぷりと
「漬かって」しまっているから
だ。

人間として努力しなければ
食物を得ることも難しい世界に生まれ、
また、
生き延びるためだけではなく
自らを確立するのは「力」だと、
生まれた時から、
人間界で教え込まれ続けているから
だと思う。

弱肉強食。
適者生存。
私たちの現在のこの姿が、
「自らの力」に頼って進化してきた結果だ
という思想に漬かっている。

いや、
これはもう「思想」という流動的なものではなく
自分の必要を自分の力で満たそうとする、
自動的に心と体がその欲求に反応する、
自分自身の体(肢体)に染み込み、
住み着いたメカニズムだ。
(漬かっている、という書き方は意図的)

人間の無力の中にこそ、神様の力は現れる。
・・・まさにパラドクスである。

しかし、
何も意識していないと、
私たちの心と体は、
自然に、
自らの力に依存して、
神様の憐みと恵みを必要としない立場へと
自分を押し流そうとする。

なんとも悲惨な私の性(さが)である。しかし自分が無力であるとは、私は絶対に認めたくないと思っている。そのことを想像してみようとも、実は思っていない。しかし、その頑なな心こそ、私を滅ぼすものだと、神様は教えておられるのだと思う。私には、神様の恵みと憐みが、必要なのだ。
God's grace is a gift, and humans can only "receive" it. We often think about God's grace in this way. But, something cunningly ensnaring hides behind this phrase.

That is to say, the term "receive" can be taken in either active sense, or passive sense.  And we get confused.

God's grace is not something we receive through merit or human work. In this sense, to "receive" is used in the passive sense.

However, we also often say that we should still "grasp" and take a hold of God's grace as a gift. In this sense, to "receive" suddenly becomes an active verb.

Active, or Passive?

Our brain starts to turn, and we stand in the starting line of the unending mental struggle running in circles to figure out what God's grace is. And the more we do this, the more we get confused, and worse, mislead.

We must STOP and bring our minds back to the fundamental understanding of God's grace and mercy.

This is what I believe:

Receiving God's grace and mercy, in particular, is ALWAYS a PASSIVE action. There is no such thing as actively receiving God's grace and mercy.

In the Scripture, our human condition before (or that demands) God's grace and mercy is depicted by some very powerful (and even gruesome) images:

I.e., in the eyes of the LORD, when he stretches his arms to give grace and mercy to humans, they are:

1) harassed (skinned) and helpless (thrown away), like sheep without a shepherd. (Matthew 9:36)

2) Abandoned newborn child without anyone to look after, with his cord still attached, and covered in his own blood. (Ezekiel 16)


Both of these images depict lifeforms which is about to die and perish. The human condition before God is not someone who can actively make an effort to gain mercy and grace from God. The human can hardly lift up its head, let alone stand on its own feet. He is about to die, abandoned, helpless, and hopeless.

To that kind of human condition, God speaks out: "I will save you." "Live!" That kind of voice is the grace and mercy uttered by Lord Jesus and our Father in Heaven.

If humans hears God's mercy and grace as such, God's mercy and grace must be, by definition, received passively. Once we start entertaining the idea that God's grace and mercy may be received actively (by us doing something), we will turn the mercy and grace into something that are not. They might be good thing, pious, and Christian; but they are no longer God's mercy and grace.

When an infant is held in his mother's hand, and is bathed in warm water, the child receives the warmth and is cleansed. But, that is because he is sustained by the guardian's hands, and covered by the water. What is the child actively grasping or taking hold of? .... Nothing.

God's grace and mercy is such a thing. But, we humans often turn that into something that we need to take hold of and to grasp by doing something (including changing our minds). Why?

it is because, I believe, humans are extremely bad at admitting that they are powerless; it goes against their nature. Humans are so deeply entrenched in the idea that one's power and ability is what realizes everything and meet their needs - which as a reality, TRUE.

Humans cannot even get food without actively working the ground; furthermore, humans are educated repeatedly and for thousands of years that one's power is what establishes their identity.

This philosophy, nay, the ruthless reality of self sufficiency under which we live has affected our being so deeply to the point that we cannot think in any other way. Its US.

We even theorized that the "law of the jungle," or  the "law of the survival of the fittest" has been the driving force of our evolution that made us who we are today.  No... This is not simply a theory or idea that comes and goes, but has become the mechanism of our bodies and minds, taking root, permeating, and controlling our being.

God's power is manifested in humans' weakness: this is a profound paradox. As we are, humans are incapable of manifesting God's glory..... AT ALL.

Without knowing it, we constantly glorify ourselves and cherish our power and abilities; this is our nature.

As we do so, we gravitate towards the mindset that says, "We need not God's mercy an grace," putting our own self-sufficiency before God's saving hands.

Gosh!  What in the world have I become! But, to admit that I am powerless is something I dread the most, and I am refusing even to imagine about it. But, that means DEATH before God. Spiritually, I am trying to kill myself.... I need God's mercy.


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