<週報からの引用終わり>

「信仰義認」とは、神が、人を、その人の行いによってでは無く、人が神の恵みを信じる信仰を通して、神が人を義とお認めになることを指す。しかし、問題は、その信仰義認の原理に基づいて人が義と認められたことによって、その人の何が、どう変わるのかである。私は長い間、信仰義認については、処罰されるべき人間に対して、神が彼らを無罪放免にして下さったという意味で理解してきた。その結果、人は、「あぁ、私は罰を免れた」という、安堵感を与えられるのである。その安堵感こそ、信仰の結果なのだと、また、救いなのだと思っていた。しかし、私は、今は違う考え方をしている。
話は少し逸れるが、人が何かを手に入れた時の喜びの「正体」について興味深い分析をしている人の話を聞いた。そこで言われていたのは、例えば、最新の iPhone を手に入れるために、発売日の何日も前から店の外で並んでいた人が、そのデバイスをとうとう手にしたときに感じる「喜び」は、実は「何かを手に入れた喜び」では無いというのである。
むしろ、その歓喜は、今持っている(旧式の)iPhone に対する不満足、「もっと欲しい!」という欲望、また、自分は最新のデバイスを持っていないという不満が心の中に積み重なって生じる極度のストレスが、新しい携帯電話を手にした瞬間、一気に解放されることによって感じる「安堵感」に過ぎない、というのである。その喜びは、そもそも最新のiPhoneそのものが与えてくれたものでは無く、あくまで、自分の心の欲望が生み出すストレスからの開放感なので、時間が経てば、また、同じ解放感を求めて新しい何かが欲しくなる、という訳である。終わりの無い、欲望のサイクルの中に囚われてゆくのである。一種の中毒である。
神の義を頂いた人の、一瞬の喜びにも、これと似た面があると思う。人は罪を犯して、罪悪感に沈み、自己嫌悪の中で絶望し、ストレスが増大してゆく。そこに、神の義が訪れて罪の赦しを告げるので、その人は内的なストレスから一瞬で解放され、安堵する。その安堵を、神の義を頂いた喜びだと、勘違いするのである。
神の義を頂いた人が、本当の意味で喜ぶべきことは、神の義そのものを喜ぶことである。それは、自分の罪が赦されたという一瞬の安堵感では無く、もっと本質的に、神の義の到来そのものを喜ぶという事である。すなわち、神の義の中に現れている、罪びとを赦して、本来義と認められ得ない者をあえて義とお認めになる神の恵み深さと、極度に罪深い者をさえ徹底して愛そうとしてくださる神の御心の偉大さを、自分自身に訪れたよき知らせ(福音)として喜ぶという事である。言い換えれば、神の義の現れが指し示すところの、神のご性質、神ご自身を、喜ぶという事である。
神が人を義とお認めになるという出来事は、ある意味、神が、ご自身の性質を私達、人間に悟らせ、そして与え、人間の心の中に、ご自身の愛のご性質を宿らせようとして下さるという、神の人間に対する新しい創造の業であるとも言えるかも知れない。この恵みは、創世記において、神が、「我々の形に似るように、人を造ろう」と仰せられた、あの創造の御業を思い起こさせる。その時、人は、神の恵みの前に、まったく無力となり、その無力故、神の愛を受けるだけの器として、全身を包み込むような神の祝福を頂くのではないだろうか。