大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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週報コラム(9月24日)

9/23/2017

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「神の義」シリーズ第一回(前六回): 「義」という言葉は、ギリシャ語でディカイオスネーと言い、基本的な意味は、「司法上の人の正しさ」である。「神の義」とは、神の法廷において、神が、罪びとを無罪となさることである。しかし、人が、「あぁ、罪の処罰を免れて良かった」と、胸をなでおろして法廷を立ち去ってしまうとしたら、それは極めて軽率である。むしろ、神に赦されたその罪人は、胸を叩いて、裁判官である神に目を向ける事もせず、ただ、「このような私を、なぜ無罪となさったのですか?」と、法廷に立ち尽くすだろう。そして、その時、人は、驚愕の恵みの言葉を神から頂く。・・・「愛する我が子よ」、と。その慈しみに心を打たれた者は、悔い改めて、神に心を新しく変えていただく生涯へと入るのだ。
​<週報からの引用終わり>
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追記:

「信仰義認」とは、神が、人を、その人の行いによってでは無く、人が神の恵みを信じる信仰を通して、神が人を義とお認めになることを指す。しかし、問題は、その信仰義認の原理に基づいて人が義と認められたことによって、その人の何が、どう変わるのかである。私は長い間、信仰義認については、処罰されるべき人間に対して、神が彼らを無罪放免にして下さったという意味で理解してきた。その結果、人は、「あぁ、私は罰を免れた」という、安堵感を与えられるのである。その安堵感こそ、信仰の結果なのだと、また、救いなのだと思っていた。しかし、私は、今は違う考え方をしている。

話は少し逸れるが、人が何かを手に入れた時の喜びの「正体」について興味深い分析をしている人の話を聞いた。そこで言われていたのは、例えば、最新の 
iPhone を手に入れるために、発売日の何日も前から店の外で並んでいた人が、そのデバイスをとうとう手にしたときに感じる「喜び」は、実は「何かを手に入れた喜び」では無いというのである。

むしろ、その歓喜は、今持っている(旧式の)iPhone に対する不満足、「もっと欲しい!」という欲望、また、自分は最新のデバイスを持っていないという不満が心の中に積み重なって生じる極度のストレスが、新しい携帯電話を手にした瞬間、一気に解放されることによって感じる「安堵感」に過ぎない、というのである。その喜びは、そもそも最新のiPhoneそのものが与えてくれたものでは無く、あくまで、自分の心の欲望が生み出すストレスからの開放感なので、時間が経てば、また、同じ解放感を求めて新しい何かが欲しくなる、という訳である。終わりの無い、欲望のサイクルの中に囚われてゆくのである。一種の中毒である。

神の義を頂いた人の、一瞬の喜びにも、これと似た面があると思う。人は罪を犯して、罪悪感に沈み、自己嫌悪の中で絶望し、ストレスが増大してゆく。そこに、神の義が訪れて罪の赦しを告げるので、その人は内的なストレスから一瞬で解放され、安堵する。その安堵を、神の義を頂いた喜びだと、勘違いするのである。

神の義を頂いた人が、本当の意味で喜ぶべきことは、神の義そのものを喜ぶことである。それは、自分の罪が赦されたという一瞬の安堵感では無く、もっと本質的に、神の義の到来そのものを喜ぶという事である。すなわち、神の義の中に現れている、罪びとを赦して、本来義と認められ得ない者をあえて義とお認めになる神の恵み深さと、極度に罪深い者をさえ徹底して愛そうとしてくださる神の御心の偉大さを、自分自身に訪れたよき知らせ(福音)として喜ぶという事である。言い換えれば、神の義の現れが指し示すところの、神のご性質、神ご自身を、喜ぶという事である。

神が人を義とお認めになるという出来事は、ある意味、神が、ご自身の性質を私達、人間に悟らせ、そして与え、人間の心の中に、ご自身の愛のご性質を宿らせようとして下さるという、神の人間に対する新しい創造の業であるとも言えるかも知れない。この恵みは、創世記において、神が、「我々の形に似るように、人を造ろう」と仰せられた、あの創造の御業を思い起こさせる。その時、人は、神の恵みの前に、まったく無力となり、その無力故、神の愛を受けるだけの器として、全身を包み込むような神の祝福を頂くのではないだろうか。

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週報コラム(9月17日)

9/16/2017

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「伝道」と訳されているギリシャ語は、宣言するという意味である。伝道とは、人間が計画して行う「活動」では無く、「主イエス・キリストを通して、神の救いが私に訪れた!」という喜びのメッセージ(福音)の心からの宣言である。伝道とは、特別な集会の実施では無く、神がキリストを通して人をご自分の子どもとなさる時、その人の心に喜びが沸き上がり、あふれ出る、神の出来事である。伝道をする・しない、という問題は、本質的には、「私の中に、神の子とされた喜びが躍動しているか・していないか?」という心の問題である。聖霊の与える喜びの躍動が無いところに、果たして伝道は起こっているだろうか。<週報からの引用終わり>
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追記:

上の写真二枚は、「クリスマス」、と"Christmas"というキーワードでgoogle検索をかけた時に最初に出てくる画像である。世の中では、クリスマスは、もう完全に祭典化していて、おおよそ、それ自体がキリストの福音を語っているとは言い難いものになっていると思う。

もちろん、人は、クリスマスのプレゼント交換の心と、キリストの恵みの心を重ねて、クリスマスとキリストとの関連性を主張することもできる。それは構わない。でも、私にとっては、そのような主張は、こじ付けにしか聞こえない。それで、もし教会が、教会の総意として、クリスマスには特別な集会を開き、伝道活動をしなければならないと言うのなら、それならば、「クリスマス以外の日には伝道活動をしていないのか?」という疑問を投げかけたい。

伝道とは、特定のイベントや集会では無く、あくまで、キリスト者の中に躍動する神の喜びによって支えられた、神のはたらきだと私は今回の説教を通して教えれたと思う。クリスマスイベントを通して伝道が成される可能性を否定するつもりは、全くない。また、伝道する心が、クリスマスイベントという一つの形をつくり出す可能性を否定するつもりも、全くない。しかし、それは、お盆や、お正月や、何気ない日常での普通の一日の中であっても、そこに神が働かれて伝道が成立する可能性があるという場合や、喫茶店での会話が伝道へと繋がっていくことがあるというのと全く同じである。

しかし、伝道が成立する特別な可能性を求めてクリスマスイベントを企画する、という考え方に対しては、私はその動機に関して疑問を感じる。なぜなら、伝道の可能性は、キリスト者の中に、一年中、毎日、一時も休まずに働いておられる聖霊の働きと喜びの躍動が与えて下さるものだからである。クリスマスに機会を得て、特別な伝道の可能性を探ろうというのなら、それは、ある意味、毎日の日常的な関りを通して福音を伝えなければならない方々に対して、福音伝道のチャンスをクリスマスに限定しようとすることになるのではないか?とさえ、思うのである。

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週報コラム(9月10日)

9/10/2017

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キリスト者は「パリサイ人」と聞くと即座に彼らに「偽善者」というレッテルを張るが、注意するべきは、当時のパリサイ人たちは聖書を実践する立派な正しい人たちとして、社会的に評価されていたということである。主イエスが問題となさったのは、パリサイ人が自分の善い行いを根拠として自己義認し、逆に自分たちと同じように考え行動しない者たちを「罪びと」と裁くことで、神の恵みが彼らにとって無益になってしまったことだ。私達はどうだろう。現代の教会も「我々は聖書を規範とする正しい教会です。モルモン教やエホバの証人とは一切関係ありません。」と宣言する。それは立派で正しい。しかし同時に、明らかにパリサイ的でもある。神の恵みは、私達のどのような言動を通して証されるべきなのだろう・・・。
<週報からの引用終わり>
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追記:

人は、何かについて分かったつもりになっても、実は何もわかっていないことの方が圧倒的に多いのではないか。人間の知性によって理論的に何かが正しく説明されることと、神的な真理とは、そもそも別次元であるということを認めようとする時、主イエスの言葉の重みが違ってくる。いや、ナザレ人・イエスを、神の御子、主なる救いぬしとして信じることが、すでに信仰の飛躍を伴っている事だという事を、改めて考えさせられる。

人間は、金魚鉢の中の魚だ。金魚鉢というきわめて狭い世界の中で生まれ、生き、それしか知らない。目の前の存在にしか触れることが出来ず、感じることが出来ず、考えることもその世界の中の事だけ。金魚鉢の外の世界は常にぼやけて歪んでいるし、さらにその外にある広い世界も、大海も、宇宙の神秘も、その存在がそこにあるという事さえわからないでいる。

人が神を知ることがあるとすれば、その神なるお方は、人の思いとはかけ離れたお方であるはずだ。主イエスの証される神が、神なのである。それを信じているのが、キリスト者なのである。その主イエスが、人間のあらゆる行いも、その人を神の前に義とすることは無い、そうおっしゃるのである。問題は、人間の善悪の判断という金魚鉢の中に生きてきた私達が、その教えを信じることが出来るかどうかである。
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週報コラム(9月3日)

9/2/2017

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伝道者は先週、説教者訓練セミナーのため、電車で鎌倉へと向かった。その電車が都内に入り、ふと外を見た時、私は心をチクリと刺される思いがした。眼下に様々な飲食店、コンビニ、ホテル等が立ち並び、人々がその隙間を縫うように忙しく動き回っている。もちろん、私もその一人だ。現代人は、自ら作った社会の仕組みの中で、自らに苦しい労働を課している。神の御前にあっては、私達は自らで作った牢獄の囚人となっているのではないか?そんな疑問を持ったのだ。しかし私は、鎌倉駅に着くやいなや、空腹を覚え、ケンタッキー・フライドチキンを美味いうまいと頬張っていた。神の御前に生きることへの関心など、まるでどこ吹く風である。私の神に対する無関心は、とても根深い心の病なのだと思わされた。
​<週報からの引用終わり>
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揚げ物はうまい。
​どうしようもなく、うまいのだ。
追記:
クリスチャンは、しばしば、「私は罪びとです」と言う。しかし、それは、せいぜい、「私は、悪いと思っていることをしてしまう、悪い人間です」という程度の意味で言っていることがほとんどではないだろうか。しかし、「罪びと」という言葉は、主イエスの福音のメッセージに照らされた上で語るなら、それは、主イエスの十字架による贖いのわざ、すなわち神の救済を必要としている、人間にはどうしようもない状態のことを指す。すなわち、人の心、人の判断力、実行力、そのすべては、神の御前にあっては「一度、十字架の上で滅びなければならない」ほど、徹底的に、修復できないほど、ねじ曲がってしまっているという事である。

「神の御前に生きる者として、現代社会はどこかおかしい」 などと、分かったような、偉そうなことを言いながら、その自分自身が、瞬時に、たった今批判したはずの現代社会が提供する肉欲を満たすサービスの数々の中に飲み込まれ、その中で満足しようとしているのである。罪とは、そのような、無意識でそれをしてしまうほどに徹底して心に定着している、神に対する無頓着、無関心、そして反抗心なのである。その心の病は、自分が何か悪い事をしてしまったという程度の表現で済む問題では無いし、逆に、自分が何か良い事をしたから解決するものでも決して無いのである。

「私は罪びとです」とは、神様が主体者として立ち上がり、私達を救って下さらなければ、どうしようもない状態であることを、告白する言葉なのである。キリスト者は、自分を罪びとですと言いふらすが、その割には、依然として人(他者と自分)を裁いたり、自分の正しさを誇ったり、自分の利益を求めて生きることに疑問を持とうとさえしなかったりする。「私は罪びとです」という言葉は、その意味で、自分の罪びととしての本質から目をそらすための、隠れ蓑だとさえ言っても、過言ではないだろう。
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