晴れた日は、自分の影がくっきりと見える。自分が動けば、影も動く。しかし、影とは、自分という存在が太陽の光を遮ることで地面に現れる、光に照らされている部分と、そうでない部分との間に生ずるコントラストである。影とは、自分の存在証明ではなく、むしろ、自分を照らしている太陽の光の存在を人に悟らせるものなのである。
私たちの愛や善行や悔い改めの実体は、自分の努力には無い。むしろ、私たちの行いを、聖霊ご自身が実現なさるその時、私たちは、自分たちの行いという影を通して、私たちをキリストの愛で照らしていて下さる、神の恵みのすばらしさを知らされるのである。それは、自分のどんな努力によるどんな成功よりも、この上なく喜ばしい幸せなのである。