<週報からの引用終わり>
■太平洋戦争中、日本は敵国アメリカとイギリスを「鬼畜米英」と呼び、蔑視した。しかし今や、復興した日本ではかつて「鬼畜」と蔑んだ国の言葉を、価値あるスキルとして学校や塾で盛んに学んでいる。時代が変わると、人の考え方も根本的に変わる。■主イエスの十字架以前、人間は神の前に正しい行いをしないと救われないという時代に生きていた。しかし、今や、イエスの十字架によって、イエスを心で主と信じることによって救われる恵みの時代が人類の現実に突入した。神の御前に正しく行うのではなく、父なる神をキリストを復活させたお方として信じることによって神との平和が実現する新しい時代である。今や、人が神に救われる道を阻むのは、ただ一つ、人が主イエスを信じない不信仰だけである。
<週報からの引用終わり>
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■伝道者は現在、ある非信者の青年と週一回、聖書の話をしている。最近の会話で受けたのは、「キリスト教は他宗教をどう見ているのか」という問いである。私は、「神に愛されている人々」と答えた。キリスト教の教理や聖書の正しさを相手に信じさせることが伝道だと考えるなら、他宗教はキリスト教を否定する「敵」であり、そして信じようとしない者は、神に見放された者として関心の対象外となってしまうだろう。■しかし、今や、信じる・信じないの以前に、十字架によって「神の義」が罪人に現わされたという事件を知ったなら、神の義を信じる者たちが目にする人々は、すべて、神に愛されている者たちでしかあり得ない。その、神の恵みと愛こそが、教会が宣言する真理であり、伝道の言葉である。
<週報からの引用終わり> 人間が感じる恐怖の根本は、自分が生きる力を奪われる喪失感だとすると、主イエスの福音は一種の恐怖を伴うものである。なぜなら、福音は、人間の善行を要求せず、ただ一方的に神の恵みによる救いを人に宣言するからだ。すなわち、福音は、人が神の御前に正しく生きる能力(や努力)を放棄することを、人に要求するからである。だからこそ、福音は、どんな喪失感や絶望の中に居る人をも救い得るのだが、逆に、自分の力により頼もうとする魂にとっては、福音は脅威であり続け、「信じるだけで救われる」という宣言は受け入れ難く、依然として、「天国に行くには善行が必要なのだ」という考えを生み出し続ける。しかし、それは信仰という仮面をかぶった、臆病なのではないだろうか…。
<週報からの引用終わり> 「律法」という言葉は、ギリシャ語で「ノモス;nomos」と言い、その意味は、①人間の行いに関する規定、そして、②「モーセ五書」のことを指す。主イエスは律法を成就するために来られ(マタイ5:17)、同時に、律法を廃棄なさった(エペソ2:15)という新約聖書の記述は一見矛盾しているが、実は同じことを言っている。つまり、主イエスの十字架によって、①「行いについての規定」としての律法によって裁かれる、人の行動の善悪に基づく救いの原理が破棄され、それによって、主イエスを信じる者すべてが救われることとなり、それは、まさに、②「モーセ五書」としての律法が証言するところの、神が恵みをもって全世界の人々を祝福して下さるという約束の成就したからである。 <週報からの引用終わり> 追記:
今回の説教では、「律法と預言者」、すなわちヘブル語の聖書(旧約聖書と呼ばれているが)の中で、神の恵みを証言する箇所として、民数記20章を選んだ。この箇所では、モーセとアロンが、民イスラエルの罪を至極全うな理由に基づいて「逆らう者たちよ!」と厳しく裁いているが、父なる神は、その逆らう民に対して、一方的に恵みを施しておられる。そして、神であるご自分と同じように、民に対して恵み深い心を持とうとしなかったモーセとアロンを、逆にお責めになっておられる。これが、モーセ五書としての「律法」が証言する、神の恵み、神の聖さ、そして神の義である。 同様の出来事が、「預言者」によっても証言されている箇所がある。それは例えば、ゼカリヤ書3:1-5である。この箇所では、バビロン捕囚の後にエルサレムへの帰還が許されたユダヤ人たちの指導者である大祭司ヨシュアと、サタン、すなわち「責め立てる者」が、共に神である主の前に立つ。当然、責め立てる者、咎める者であるサタンは、バビロンの捕囚を引き起こした民イスラエルの罪の数々を引き合いに出し、それを律法と比較して、ぐうの音も出ないほどに大祭司ヨシュアを始め、彼が代表している所の民イスラエル全体に対して「許されざる者たち」としての裁きを下していたことだろう。サタンには、そのような裁きの宣告を下す理由と根拠が十分にあったし、その根拠は、神の言葉にさえ求めることが出来たのである。 ・・・しかし、驚くべきことは、ここで、神である主がとがめているのは、大祭司ヨシュアでも、民イスラエルでもなく、むしろ、正統な理由と根拠をもって民を責め立てている、サタンの方だ、という事である。そして、逆に、反逆に反逆を重ね、偶像崇拝に偶像崇拝を重ね、罪のどん底に落ちて汚れてしまった大祭司ヨシュアを、その着物をすべて取り換えることを通して、神は清めようとしてくださっておられるのである。このゼカリヤ書3章の箇所においても、神の民イスラエルに対する憐れみと恵みが、律法による正当な裁きよりも優先され、勝利しているのである。これが、「預言者」が証言する、神の恵み、神の聖さ、そして神の義である。 そして、私達自身が、キリスト者として問われることになる。 私達は、この恵み深い父なる神の御前で、どのように人と接するべきなのであろうかと。私たちが現わす、私達の心の中の「神」は、私達を見る人々の目に、どのような神として現れているだろうかと。私たちは、神を、恵み深いお方として現わしているだろうかと。 教会の様々な教理や、聖書解釈は、究極的には、その主張がどれほど学問的に洗練され、しっかりと理論構築されているかによって量られるのではない。すべては、神ご自身のご性質に対して量られるのである。したがって、聖書解釈を云々する人に求められているのは、その人の心に、神の恵み、そして神の厳しさに関する神学がしっかりと確立している事である。それは、幼子の神学である。 |
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January 2021
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