神は人間を祝福するために自然界を創造したが人は生き抜くために自然を破壊する。神は人に仕えたが人は権力を得ようと機会を狙う。神は恵みによって人の罪を赦すが人は理由を付けて裁き、憎み、滅ぼそうとする。人は、神が正と言えば否と言い、神が美しいと言えばそれを忌み嫌い、神が忌み嫌えばそれを慕い求める。このような、神とは全く逆の心で生きる人類の精神を「罪」と呼びます。罪に打たれた精神は決して神を正しく語れません。人は、神について語ろうというのなら、自らの論理的(聖書的)な正しさや行いからではなく、先ず、自分は十字架でキリストと共に死んだ、いや死ななければならなかったという無力から出発しなければならないのです。<週報からの引用終わり>
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ルールとは、規定そのものを人に守らせるためではなく、むしろ、人がそのルールと接することで、そこに何らかの現実を生じさせることを目的として存在します。例えば、交通ルールは、歩行者や運転者が安全であるという現実を生じさせるためにあります。神の律法や主イエスの命令も、ルールを私たちが守り行うために存在するのではなく、むしろ、神のことばと人が接することによって、神が望まれる現実の中へと人が招き入れられるためにあるのです。つまり、私たちが御子なる主イエスの恵みと愛を信じて、救われるために律法や掟は与えられたのです。「律法を守らないので救われない」と言うのは、人の違反行を問題にしているのではなく、むしろ、律法を知りながら主イエスの恵みと愛を信じないかった、という事なのです。<週報からの引用おわり>
私たちは、身の周りに自分が望まない出来事が起きると、即座にその問題が取り去られることを神に祈り求め始めます。何か欲しいものがあると、それが与えられることが神の御心だと言い、即座に祝福を神に求めますが、それが与えられないと、今度は、与えられないことが神の御心だったのだと言って納得しようとします。そのようにして人間の願望や夢想が神の御心を振り回します。しかし、現実には、私たちの世界から、病や、争いや、苦しみが無くなることはありません。そんな中、私たちは苦しみつつ、「私たちを憐れんでください!」と神に叫び求めることしかできないのです。祈りとは、私たちの願望を神に聞いて頂くことでは無く、神の恵みと愛を信じて耐え忍ぶ私たちの「うめき」だと言えるのではないでしょうか。
私たちは、「もっと信仰があれば、~できるのに」と考えて、「神よ、もっと信仰を増し加えて下さい」と祈ることがあるでしょう。しかし、信仰が、そのように、自分の中で増えたり減ったりするような性質のものであると考えていることは危険を伴う誤解かも知れません。なぜなら、「自分には大きな信仰があったから~できた」、と考えることは、逆に言えば、誰か他の人に対して、「あなたは、信仰が私よりも小さいから、~できなかったのだ」と、人を裁くことにつながるからです。信仰とは、神がそれぞれに恵みによってお与えになる賜物です。「もっと信仰を!」と求めず、今、自分に与えられている信仰の量りを出発点として、常に、今、神の愛と恵みを感謝する心に生きたいものです。<週報からの引用終わり>
エルサレム教会の指導者ヤコブは、教会に集う貧困者(弱者)と金持ち(強者)たち双方の意識を共に天へ向けさせようと語ります。そして、「あわれみが裁きに対して勝ち誇る(ヤコブ2:13)」ことが、教会に溢れるべき現実だと説きます。なぜなら、罪人を裁かず、むしろお赦しになる恵み深い神が、主イエスの御父なる神だからです。私たちがお互いに語り合う時、「あわれみが裁きに対して勝ち誇る」ことが起きなければ、それは信仰ではありません。自分の側にどんな法的正義や、聖書的正当性があったとしても、人が慈悲を棄てて他者を裁くとき、その心からは、神の姿は既に消し飛んでしまっているのです。そのような信仰は、自分も他者をも救えない、死んだ信仰なのです。<週報からの引用終わり>
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January 2021
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