キリスト者の使命についてだ。
結論は、
キリスト者の使命は
①キリストを愛すること
②他がキリストを愛するように導くこと
である。
その使命を達成する上で、
性的な不品行などの罪はやめなくてはならない。
性的不品行はその根本において
相手を性欲と情欲の処理のために「モノ」扱いすることであり、
自分と相手の尊厳を著しく損なう行為だからだ。
その、お互いの人間性を否定する関係性の中で
お互いがキリストの愛に導かれることはあり得ない。
なぜなら、
キリストが人間の尊厳を認め、
愛されたからである。
それはそうと、
キリスト者の使命は罪をやめることそれ自体ではない。
あくまで、
キリストを愛することである。
その邪魔になるものを排除する必要性から、
罪をやめなくてはならないのである。
キリストを愛するなら、
罪は居場所を失う。
それは必然。
罪を排除することで
キリストを愛するということになるかは
必然ではない。
罪の悔い改めには、
神の愛が先行するのである。
それなのに、なぜ私たちは、
罪と罪びとを断罪することに
多大なエネルギーを費やすのだろうか。
私たちの使命は愛することだ。
裁き、断罪し、憎むことでは無い。
裁き主は主イエスのみである。
キリスト者が、罪を裁き、また罪びとを裁きたいなら、
彼らがするべきことは、
愛と、受容と、寛容さの限りを尽くして、
裁きは神にゆだねて、
その罪ある人を主イエスの御前に、
招くことである。