神殿とは
<週報からの引用終わり>
神殿とは神殿(宮)とは、その人が礼拝する神が臨在する信仰の中心です。イスラエルの神殿の中枢である至聖所に安置された契約の箱にはモーセの十戒を記した2枚の石板が入っていました。その石板に書かれている最初の言葉は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である(出エジ20:1)」という、今や滅びようとしていた民を神がアブラハムとの契約(創22:16)の故にお救いになったという、無力な民と恵み深い神との関係性の樹立の宣言でした。人が神殿で行う祈りは、本来的に、恵み深いこの神への接近であり、神の愛を叫び求める罪びとの切なる心の願いなのです。…聖霊の宮である教会は、どんな祈りを神に口ずさんでいるでしょうか。
<週報からの引用終わり>
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私たちは祈る時、目の前の諸問題の解決を求めて祈ります。つまり、「神よ、私はどうしたら良いのでしょうか?」という問いで頭を一杯にして熱心に祈ります。しかし諸問題が解決すると祈るのを止めてしまいます。そのような祈りは一過性で、継続せず、結果によって有頂天になったり失望したりする不安定な信仰に基づくものではないでしょうか。それに対して、いつでもそこに生まれ、いつまでも継続する祈りは、天に目を向けた聖霊に促された祈りです。「神よ、あなたは、どのようなお方なのですか?」と問い、「神よ、私は、あなたの御前にどんな存在なのですか」と自己吟味させられる祈りなのでは無いでしょうか。祈りとは、本質的には、御霊を通した神から私たちへの愛の語り掛けなのです。
<週報からの引用終わり> 説教の方法には「主題説教」と「講解説教」があります。「主題説教」は一つのテーマに沿って聖書を広く考察しますが、この場合、説教者の主張の正当化のために聖書が都合よく使われてしまうことがあります。「講解説教」は一つの聖書箇所の意味を掘り下げます。この場合、説教者は強制的に御言葉が語る声に傾聴させられます。喩えるなら、前者は目の前に整然と整えられたレストランでの外食を楽しむようなものであり、後者は未だ見ない将来の収穫の時を夢見て行う種蒔きと言えるでしょう。長い目で見た場合、牧師と教会を成長させる聖書との関わり合い方は、どちらでしょう・・・?
<週報からの引用終わり> IIペテロ3:11は、読者に「あなたは聖なる信心深い生活を送らなければならない」と教えます。しかし、私たちがそうするべき理由は、神の処罰を恐怖するからではなく、「すべてのものは滅び去る」からです。逆に言うと、信心が無く汚れた生活とは、この世界がやがて滅びる死んだものであり、死が支配する世界の中でどれほど富や名声・肉体的な快楽を得ても人の心は決して満たされないという真理を信じないで生きることです。それは神の恵みと愛によって満足させられることを拒み、神の恵みと愛以外の何かで自画自賛できる自分を実現しようとする生き方です。その意味では、聖書的に正しくあることも、人がそれを自負し誇りとするなら、それは汚れた不信心な生き方になるのです。<週報からの引用終わり>
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February 2021
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