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週報コラム(1月1日)

12/31/2016

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ライ病について:聖書における『ライ病』とは様々な皮膚病のことを指すが、その一つは『ハンセン病』。ハンセン病の感染力は低く、1947年には、アメリカで開発されたプロミンという特効薬も日本で使われ始めた。それにも関わらず、ライ病患者の隔離政策が1996年まで続いたことは、この病に対する人々の嫌悪と恐れの根深さを示している。神の律法もライ病患者の隔離を定めている(レビ記13)。だがこれは、神がライ病患者を嫌悪したからでは決して無い。、むしろ、イスラエルの公衆衛生維持のための止むを得ない対策である。律法の本質は、ご自分の民全体の健やかさを望まれる、神の深い配慮なのである。

<週報からの引用終わり>
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今回の説教準備を通して、40分ほどの説教の中には収まりきらない多くのことを学ばされた。その一つは、主イエスと律法のかかわりである。

一方で、使徒パウロは、エペソ人への手紙 2:15で、主イエスは、『規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました』と書いている。このような、主イエスがまるで律法を敵視してそれを破壊するために来られたと見える言葉に飛びついて、『新約の時代に生きるキリスト者は、律法は無視して良い。旧約聖書など関係ない。』と極端な考えに走る者がいる。しかし、その一方で、主イエスご本人は、マタイ5:18で、『
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 』 と語っておられる。この言葉に飛びついて、『キリスト者であっても、律法は順守しなければならない!ゆえに、神は同性愛者を憎む・裁く・地獄へ落とす!!』というこれまた極端な考えに走る者もいる。

この二つの聖書の言葉(あくまで例として)は、表面的には、明らかに矛盾している。そのため、人によっては、『使徒パウロは主イエスの教えを曲解して、キリストをないがしろにし、独自の神学を展開している。その教えに頼るクリスチャンは、むしろ、”パウロ教”の信者なのだ』 と批判する者もいる。

確かに。表面的には、矛盾している。・・・そう。表面的には。律法の一字一句、一点一画の記述について、それを、『規則と戒律』としてだけ捉えて、それを実行するか・しないかという二元的な『人間の行動論』として理解(あるいは実践)しようとするなら、パウロと主イエスの言葉は、矛盾する。しかし、その矛盾は、人間の、不信仰が原因となって生じてしまっているものではないかと思う。問題は、律法というものを、『行うか、行わないか』という人間の行いの問題に落とし込んでしまうところにあるのではなかろうか。

そもそも、一般的に考えて、法律や律法とは、規則を守るか守らないかを人間に問うために作られるのではない。そうではなく、『法』とは、何か目的があり、その目的を達成(成就)するための、人間の行動や相互の関係性の理想を具体化・制度化したものだ。その意味では、法律や律法には、人間社会や個人の理想の姿を実現したいという、それを制定した者たちの『切なる思い・願い』が込められている。・・・その意味では、『本当の意味で、心から、律法を完全に守る』ということは、その律法の規則や戒律を逐一行うことではなく、むしろ、その律法の中に込められている思い、願い、理想を追求する行動をするということなのではなかろうか。

そのように、人間側の二元的な行動論から一歩離れて、律法の思い・願い(スピリット)を守ろうとすることを追求する時、使徒パウロの教えとイエスのお言葉は矛盾しない。なぜなら、文脈を考慮すると、二人は同じものを目指しているからである。先ず、1)主イエスが仰っておられる 『律法の完成』 の具体的な形は、人間同士で、腹立ちや、侮辱や、争いがなく、お互いに赦し合い、和解して受け入れ合っている神の家族が形成されている姿だ。(マタイ5:21-26参照)また、2)使徒パウロが『律法の廃棄』と言っていることは、ユダヤ人と異邦人が同じ屋根の下で生活を共有する上で障害となる、ユダヤ人特有の習慣を規定した戒律(例えば食事に関する律法や、割礼の有無)が、キリスト者のコミュニティの中にはもう神の法律としては適用されず、その結果、異邦人とユダヤ人が和合した神の家族がそこに形成されるためである。律法の規定を通して、何が実現されようとしているのか、神が何をキリストの言葉と御存在を通して実現しようとしておられるのか、それに心を傾けて、自分の行いの正しさではなく、神の御心を追求するなら、『律法の成就』も、『律法の廃棄』も、実は同じ目標に向かっているということを、認め得るのである。

それを、人間の行動の二元論(律法を行うか・行わないか。正しいか・正しくないか)にしてしまうのは、ある意味、神の御心、すなわち、人類がお互いに融和し健やかであるようにとの、深いあわれみと愛を無視する、不信仰なのである。その不信仰が、パリサイ人が落ち込んだ過ちなのではなかろうか。律法を、行いとして追求した先にあるのは、神との敵対である。これは、『私たちは聖書を規範とする正統な教会です』と公言するキリスト者に対して、警鐘を鳴らしているように思えてならない。

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週報コラム (12月25日)

12/24/2016

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あなたは、神の奇跡:ニュートンは、木からリンゴが落ちる様子を観て『重力』を発見した。重力は【図】の数式で表される。重ければ重いほど、距離が近ければ近いほど、二つの物体はより強く引かれ合うという意味だ。そして、“G” を『重力定数』と呼ぶが、この定数の値がほんの少しでもずれていたら(例えば太陽が熱くなり過ぎるなどの理由で)地球上の生命は誕生しなかったそうだ。 その『ほんの少しの差』とは、私たち人間と全宇宙の大きさの差よりも、さらに小さいそうである。私たちは、あり得ないほど精密に定められまた保たれた『秩序』の中に生かされている。私たちの存在が、すでに奇跡としか言いようがないのである。人はその奇跡の背後に神を見ることもあるだろう。
<週報からの引用終わり>

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追記:

なにぶん、インターネットで得ている情報なので、その信ぴょう性や学問的正しさについての検証についてはあえて突っ込まないでいただきたいのだが、上に書いたことは、次のような情報に拠っている。

あるYOUTUBEのビデオ(リンク)によれば、上の式の”G"、すなわち重力定数、あるいは万有引力定数の値が、(10を60回掛けた数)分の1、でもずれてしまうと、生命は成り立たないそうである。この、「(10を60回かけた数)分の一」、という数が、どういうスケールかということを考えると、それが途方もなく小さな値だということがわかる。

例えば、地球の直径と同じ巨大なダイヤルロックがあったとして、そのダイヤルに、10を60回かけた数だけの目盛りを刻んだ場合、その1目盛り分でも重力定数が変動したら、もう生命は成り立たない、と言うことである。その1目盛りがどれくらいの大きさなのかを考える。

例えば、ちょっと太い髪の毛の太さが 0.1ミリメートル だとしたら、地球の円周は 40,075 km だから、髪の一本分の幅でダイヤルの目盛りを刻むと、4x(10を11回かけた数)だけの目盛りを刻むことになる。しかし、これは、10を60回かけた数の目盛りの数と比べると、あまりに、あまりに、あまりに、途方もなく、少ない(目が粗い)目盛りの数である。

別の言い方をすると、
私たちの生命が成り立つために​、ずれちゃいけない『重力定数』の値の大きさが、​たったの
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だとすると、

一本の髪の毛の太さの、地球に対する大きさは、
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だということ。

言い換えると、地球の大きさに比べて、髪の毛一本分の割合で『重力定数』が変動してしまうと、それは、生命の存在を不可能にする『ずれ』の、10,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000 倍という巨大な『激動』になってしまうということ。

​はっきり言って、ゼロの数が多すぎて、何が何だかわからない。

つまり、結局のところ、なにが言いたいかと言うと、この、『重力定数』という数字で表されている、宇宙の秩序を保っている物理法則が地球の大きさに対して髪の毛一本ほどでもずれていたら、また今後一瞬でもずれてしまったら、太陽も、地球も、大気も、すべての化学反応の法則も、この宇宙全体の姿も激変してしまい、宇宙は混とんとして形なく、私たちの生命はその時点で存在できなくなってしまう、と言うことである。

人間と言う存在も、生命という存在も、ひいては、この宇宙という存在があり続けていること自体が、微動だにしない世界の在り方にしっかりと支えられているという意味で、奇跡としか言いようがないのである。

そういえば、神様が、混とんとした何もない世界に、『光あれ!』と秩序を創造されたことを、創世記は伝えている。何か関係があるのかもしれない・・・・・。
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福音の力を奪っているのは、誰か。

12/20/2016

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昨日ラジオを聞いていて、そのホストの人が、『教会に行って、キャンドルサービスとか音楽を聞いたりすると、その雰囲気だけで、心が清められる気分がするんですよね』と言って、その後、その人はこう続けて言った:『・・・でも、それは、仏閣や神社でも同じで・・・』 これを聞いて、やはり、私としては、この時期に教会が行う様々な、コンサートやそれっぽい雰囲気を全面に出したクリスマスの行事に、教会が力を注ぎこもうとする姿勢に、疑問を感じずにはいられなかった。

創世記 第8章 21節に、神様が愛してくださった人類の心について、神様はこう仰せられている:『人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。(それでも私は彼らを養い、あわれみ、そして救う)』

そもそも、罪にまみれて、どこをどうひっくり返したところで、初めから悪いことを考えてしまうような、罪びととしての人の心を『清める』ことができるのは、神様ご本人でしかありえない。キリストの十字架の死でしかありえない。福音が、あるいは広い意味では聖書が伝えるところの『人の心が清められる』こととは、それは、創世の時にまでさかのぼって、人という存在が神様の御前にあって、再び、価値のある存在として、罪のない存在として、どこをどう切っても神様に喜ばれる存在として、今までの自分に死んで、神様に新しく創造していただくことを意味しているのではないだろうか。

そのような、人間の実存のすべてを一旦廃棄し、そして全く新しく造り替えられるという、主体者を神様とする新生の出来事を、人間が、音楽を聞いたり雰囲気を味わったりすることで『心が清められた』と考えることは、そもそも、清められるべき対象と、その清めということの意味をどう理解するかにおいて、『キリストの福音』と『一般常識』が、いかに激しくかけ離れているかを示している。・・・つまり、一般の人々が、教会でクリスマスを味わうとき、そこに自分の心が清められるような気分に浸って、それで満足して帰ってしまうなら、クリスマスを祝う中で、実は福音が伝えられていないということになりはしないか。福音が、人の一般常識を覆すような、本来の力をもって語られていない。・・・ということになりはしないか。


でも、そのような、福音とは関係ないようなキリスト教についての『一般常識的な心の清め』を世に広めてしまったのは、だれに責任があるのか・・・。
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週報コラム(12月18日)

12/17/2016

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正しさとは:私たちがしばしば陥る、間違った心の態度がある。それは、他者の不正義を批判することで自分を正義だと考えること。他者の罪を徹底的に叩くことで、自分は義人だと悦に入る心。しかし、そのような人の思いは、神様の正しさという、まばゆい真の輝きの前に、その力を失い、倒れる。逆に、自分は罪ある人間に過ぎないと自らを裁き、力を失って倒れている人は、神の栄光の温かい輝きに包まれ、神が、その人を正しい人として立ち上がらせてくださる。本当の正しさとは、人をへりくだらせ、そして立ち上がらせる、神様の権威ある裁きと恵みなのである。
<週報からの引用終わり>

追記:
人間である私たちが、どうしても離れることのできない、一つの心の病がある。それは、前回も触れたが、人は、神様にそのすべてを依存して、神に生かされているのにもかかわらず、『神様を必要としないでも、自分は生きていけるのだ』と、自分の力で生き抜こうとする、一種の神の前にあっての傲慢の心である。​

その考えと同一直線状にあると私が思うのが、『人間は、正しい行いをすることで、神の前に正しいと見なされる』という考えである。・・・これはすぐには受け入れられない言葉だと思うが、私たちは、本来、こう考えねばならない:『人間の正しい行いの有無は、人の、神の前の正しさとは、あまりにスケールが小さく、まったく関係ないと言わざるを得ない』と。

私たちが正しい行いをして義人となり、その義人としての立場を誇ってそこに安住することは、神様は望んでおられない。それは、神の前に正しい行いをしたという誇りの中に、神様を愛する心が消失してしまうからだ。・・・神様が私たちに望んでおられるのは、むしろ、私たち人間が神の前に真に正しく受け入れられる存在となるためには、その正しさを受けるために、すべてを神に依存しなければならないということを信じることだと思う。その時、神様は、イエス・キリストを通して私たちに義を与えてくださる。私たちを、主イエスを信じる信仰によって義と認めてくださる。それしか、私たちが義を獲得する手段は無いのである。

人間どうしで、誰がより正しいかを議論するのは、好きなだけやればよい。そこには勝敗さえ決められるような、誰かが誰かを完全に論破するような出来事もあるだろう。しかし、創造主であられる神様と、その御子イエスの御前に在っては、人間のすべての議論はやめられなければならない。それはすべて俗悪な無駄口となる。父と御子の御前に在っては、私たちを聖霊が支配し、そこには、私たちが主イエスキリストにすべてを明け渡し、完全に依存している姿が無くてはならない。

栄光、在主。
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週報コラム(12月11日)

12/11/2016

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一番大切なこと:マルコ12:28-33の主イエスの教えによれば、人間が守るべき命令の中で最も大切なのは、神と隣人を愛する事。その命令を受けて、私たちは、神と人を愛そうと頑張るが、結局、神も人も愛せない自分に絶望してしまう。神の命令に従おうとする努力が、罪悪感ばかり増大させる辛い労働となってしまう。・・・そうならないための秘訣は何か。主イエスは答えを下さる。それは、このふたつの命令に先立って、我らを無条件に深く愛してくださった 『我らの神がおられる』ということを信じることである。神の愛に先ず頼ることなく、自分の力で神の命令に従おうとするのは、実は不信仰そのものなのである。神の命令を実行するためには、先ず神の恵みと愛に包まれなければならないのである。
<週報からの引用 終わり>
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追記:
​私たち人間は、神様の御前にあって、一種の心の病に苛まれていると思えてならない。その病は、人が悪い心で、悪いと知りつつ、欲望のままに何かを行ってしまうという意味での、心の病ではない。ある意味、人が、自分自身で、『これは悪いことだ』と認識出来るなら、その人の心にはまだ救いがある。

私が今考えさせられている心の病は、人間が、自分自身が、自分自身の力や知性のゆえに、まるで何者かであるかのように思っているという、その心のことだ。人間同士は、お互いに、『あなたにはどんな優れた能力がありますか?』とか、『あなたはどんな悪いことをしましたか?』とか、そういうことを語り合い、お互いに称賛し合ったり、非難し合ったりしている。ノーベル賞を誰が受賞したかという話題でわくわくしたと思えば、有名人が大麻や覚せい剤を所持したり使用したりしたことを糾弾・追及したりする。・・・しかし、その中で、我々人類は、塵(ちり)から想像されただけという、神の御前にあっての無力さと空虚さからは目を背けている。そして、その、塵に過ぎない存在にも命の息吹を吹き込まれた全能者の恵みについて、考えようともしない。

この、神様に対する無頓着と、自分自身の神様の前にあっての本質に対する無頓着が、私たちの心の病だと思わされる。その無頓着の症状として、人の悪い行いや心の思いが出てくる。しかし、同時に、その症状は人間が『悪い』と思えることだけでなく、人間にとっては素晴らしく良いものと思われる思想や偉業としても出てくるだろう。

だから、キリスト教精神は、本質的なことを言えば、人の行いの良し悪しとしては定義できないのである。キリスト者としての完成度の高さ、成熟度の高さも、その人の知識や行いだけを見ても、決して計り切れないのである。でも、どうしてもそういう人間的な尺度を、神様と人との関係性の中に持ち込んでしまう。持ち込まずにはいられない。・・・そこに心の病がある(と思う)。

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週報コラム(12月 4日)

12/4/2016

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大切にされているという実感:人は誰でも『自分は大切にされている』と実感できる相手と、つながろうとする。例えば、それは、迷惑をかけてしまったのにその非を咎めず、むしろ自分の未熟さをかばってくれるような人だ。あるいは、深い悲しみ・苦しみに中にある時、自分に寄り添い、触れて、肩を貸してくれるような人だ。自分が窮地に陥ってしまったとき、立場を捨て、危険を冒してでも駆けつけてくれる人だ。そのように考えると、主イエスのひとつ一つのご行動の中には、私たちが、神に大切にされている・愛されていることの証拠が、ぎゅうぎゅう詰めにあふれんばかりに現わされているのである。
<週報からの引用終わり>
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追記:
​キリスト者は、聖書を学び、『神を知っているという自負』の中に落ち込んでゆく危険と常に戦わなくてはならない。『神を知っている』という発言は、ある意味、神という御存在を、自分の知識、知恵、常識の、理性、経験則を総動員して描く一つの円(領域)の中に押し込めた結果として、人の口から発せられるからである。しかし、主イエスの福音は何を私たちに伝えるだろうか。

福音とは、主イエスがそのご生涯をかけて私たちに宣言してくださったメッセージである。主イエスは、そのご行動とご発言一つ一つを通して、私たちに何かを宣言しているのである。その宣言とは、父なる神の、私たちへのお心の体現である。キリスト者は、この意味で、『神を知っている』とは言うべきでなく、むしろ、『私は、キリストを見て、神と出会った』と、そして、『私は、キリストを通して、神がどのようなお方か、教えられ続けている』と言うべきであろう。

父なる神が如何なるお方なのか。私たちが知るべき神様のお心がなんであるのか、それは、私たち人間の知識、知恵、常識、理性、経験則で描かれる理想像や結論の中に決して納められないし、納めてはならない。むしろ、私たちは、主イエスをじっと見続けることを通して、神様のお心を示していただくことを切に求めて行くのが精一杯だし、それ以上のことを求められてはいないのである。いや、それが、神様が私たちに求めておられることなのである。


ヨハネの福音書 第6章 28~29節
 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。
 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 


本質的なことを言うならば、キリスト者の使命、キリスト者がするべきことに関する神のみこころは、主イエスを見続けて、信じ続けて、父なる神の愛をより深く知ってゆくこと。それだけである。そのキリストを通して示された愛を土台としない、キリスト者が自らに課す様々な負担は取り除かれるべきである。取り除く勇気を持つべきである。神に愛されるだけでよい、そのスタンスを取る勇気を、持つべきである。
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