大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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伝道者ノート

2/27/2021

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ある男性は、10代の頃から30年近く牧師を続けたが、結局その仕事を辞めてしまった。彼は、自分の長年の働きを「失敗だった」と断じ、牧師を辞めた理由について、キリスト教新聞のインタビューに匿名で答えてこう語っている:
 
「牧師が聖書を学び続ける環境がないことが問題かもしれません。若いうちはいいんです。心も体も充実していて説得力がある。しかし、老化して、そういう説得力を失うときに、人間のことばが問われてくる。本当の意味で、神のことばが生きてくる。でも、聖書を学ぶことをやめた牧師は、結局、経験と権威だけに乗る喚(わめ)く老人になってしまう。」
http://www.kirishin.com/2018/09/20/18103/ より抜粋
 
これは牧師だけの個人的問題ではなく、教会の組織にも当てはまる課題であろう。教会も、ある時代においては、若い人たちが数多く集まり、立派な設備や盛んな活動を持ち、自分たちの力と実績に乗った説得力を持つことができる。しかし、やがて教会は高齢化によって力を失い、設備の管理や活動の運営が難しくなる時が来る。しかし、そんな時こそ、今まで自分たちが学び続け、内に蓄えてきた神のことばが生きてくる。
教会が、主イエスの十字架と復活の力の御ことばに聞き続け、無から有を呼び出し、死者をよみがえらせる神の新しい創造の力に信頼するキリストの信仰のことばを聞き続けてきたなら、教会は、心に刻まれた神の御ことばの力によって、必ず立ち上がる。神が立ち上がらせてくださる。今が、神の愛の御ことばに聞く時である。
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伝道者ノート

2/20/2021

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世界的に知られたキリスト教弁証家のラビ・ザカライアスが、去年5月に召天した。彼は30以上のキリスト教関連の本を書き、ラジオ番組のホストでもあった。その彼が、先週、生前に不品行の罪を犯していたことが、調査によって明らかになった。ショックを受けたクリスチャンも少なくない。(記事)

パウロは、Iテモテ1:15-17において、こう語る:「私は、その罪人の頭です。」 パウロは、自分は罪人の頭「だった」と過去形では語らず、むしろ、自分は罪人の頭で「(今、ここで)在る」と書いている。パウロは、自分が神の働きにふさわしい人間なので、神に用いられているとは考えていなかった。むしろ、自分は依然として邪悪極まりない存在であるが、そこに自分を罪から解放する十字架の力と、新しく自分を生かす復活の力が働くことによって、自分は今の自分とされていると、彼は信じていたのではないか。だからこそ、パウロは、自分の、テモテの、あなたの、私たちの、そして教会の存在を、神に託して次のように書いている。「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

人が人を信頼すると、必ずいつか裏切られる。なぜなら、人には人の信頼に応え切る誠実さと真実を初めから持ち合わせてはいないからである。クリスチャンは、唯一、十字架の主イエス、復活されたキリストの真実を一心に見つめ、目を離さないことによって、神の恵みの中に立たされ続け、救われ続けるのである。その希望は、失望には終わらないのである。
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伝道者ノート

2/13/2021

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塚本虎二は、内村鑑三の高弟で、「塚本虎二訳 新約聖書」を書いた人物である。この「塚本訳」は、パラフレーズや説明が本文に挿入されていて、大変に読み易く、かつ面白いものであるが、ローマ書5章の略註において、彼は次のように書いている:
 
「パウロ先生の理屈っぽい頭と、議論には、まったくウンザリせざるを得ない。理屈っぽい頭の所有者である私は、このパウロの理屈が嫌で嫌で、一時ローマ書は決して読むまいと決心したことすらあった。しかしパウロの理屈は、理屈のための理屈ではない。彼が有する生命を説明するための理屈である。生命が先であって、理屈は後である。ゆえにパウロと同じ生命をもつ者には、パウロの理屈はなんでもなく解る。」 (下線は伝道者による追加)
 
 私たちは、パウロの書簡を読む時、パウロと同じ信仰をもっているだろうか。パウロは、自力で神の命令(律法)を守る能力については、自分は(キリストの十字架によって)死んだと宣言した。パウロにとっての自分の生命とは、唯、復活のキリストの力だけであった。(ガラテヤ5:19-21参照)そんなパウロが教会に望むことは、神の命令を守る頑張りではあり得ない。むしろ、キリストの十字架と結ばれて死者とされ、共に神の恵みの中に立たされながら、聖霊を通して神の愛を心にあふれるように注がれて生きる喜びを、パウロは私たちと共有したいと願ったのではないか。私たちは、自力で神に従って神に喜ばれると信じているうちは、パウロの教えを何一つ正確に理解できない律法主義者として、十字架と敵対しながら、聖書を曲解し続けるのみである。それは苦しく望みのない道である。
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伝道者ノート

2/6/2021

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クリスチャンは、「信仰が成長するべきだ」という意味のことをよく言います。しかし、その成長が、自分で自分のライフスタイルを聖書的に改善するという意味ならば、その「成長」は成長ではなく、むしろ衰退であり、神の恵みからの退却であり、滅びへと向かう「不信仰」であります。

信仰の創始者であり完成者であられる主イエスは、人の「いのち」について、こう仰せられました。「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)すなわち、人が神の御前に成長するためには、まず、自分が自分の力で自分であり続けようとする自分を放棄しなければならないのです。言い換えると、真の信仰の成長は、人の努力や、正しい動機や、自主性の延長線上には存在しないものなのです。また、主イエスは仰せられました。「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4:26-27)すなわち、神の御前にあっては、人の信仰が成長して実を結ぶかどうかは、その人が自覚さえしないような、神の神秘的な新しい創造の働きによるのです。

真の信仰とは、神が、恵みによって罪びとに与えてくださる新しい、自分には存在しなかった心です。神が与える真の信仰によって、人は、神が恵みに満ち溢れたお方であることを信じ、神の愛の中で平安を与えられます。完全な信仰は、いつも、ここに、神と共に、恵みのうちに、主イエス・キリストの名によって、私たちに「在る」のです。
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伝道者ノート

1/30/2021

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クリスチャンが、もし、神様に愛されたり、喜ばれたり、認められたりするために、「自分には努力して頑張る責任があるのだ」と信じてしまうなら、その信心は、救われない道、善行の演技を続ける偽善の道、栄光に満ち溢れた神の愛と恵みを見失い、取り逃がし、飢え渇いて倒れてしまう、滅びの道です。「文字は殺し、霊は生かす」(IIコリントコリント3:6)のです。

主イエス・キリストを信じる「信仰」とは、神様と自分との関係性の根拠を、ひとつ残らず、一切合切、なにもかも、すべて、父なる神様の恵みと、キリストの十字架と復活の御業と、内住の聖霊の御はたらきに置くことです。そうして初めて人は神様に無条件で愛される子としての喜びを知り、その喜びの故に、すべてを忍耐する器へと変えられて、福音の働きのために整えられ、用いられるのです。

その時、自分が主なる神様にお仕えするということが、どんどんと、自分の自主性とか努力とかの問題では全く無いという福音が示され続けます。むしろ、自分が神様にお仕えし、かつ、その奉仕が実際に神に喜ばれているという出来事のすべては、神様の新しい創造の力によって自分がキリストと結び合わされ、キリストと同じように神に愛され喜ばれている新しい人とされ、神様の恵みによって聖霊が自分を生きてくださるという、神の出来事となるのです。クリスチャンの奉仕、成長、完成は、人ではなく、まったく神の御意志と、御業によるのです。
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伝道者ノート

1/23/2021

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ホセア書6:6 「わたしは誠実さを喜ぶが、いけにえは喜ばない」(新改訳聖書1970年)。主イエスがマタイ9:13において、「行って学んできなさい」と仰せられた個所です。「誠実さ」とは、ヘブル語で「ヘセデ」で、辞書によれば、大別して、①人の、人に対する親切、②神の、人に対する愛と慈悲、そして稀(まれ)に、③人の、神に対する敬虔を意味します。ホセア6:6が意図するのは、誰の、誰に対する、愛、親切、慈しみなのでしょうか。

ホセア4:1-2において、預言者は人間の状態についてはこう語ります:「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている」と。この悲惨な状態にあっては、神が「誠実さ」を喜ぶというのは、人の神に対する誠実さを神がお喜びになると言う意味とは考え難いと思われます。むしろ、神と隣人を愛する責任において全く失敗し、罪に完敗して滅びてしまった人間を、神が無限の恵みによって、それでもなお愛し続けてくださることを、神がご自身の喜びとしていてくださることが、「ヘセデ」なのではないでしょうか。
私たち人間の救いは、人が神のために生きる敬虔さの中にはなく、むしろ、神が人のために生きてくださることを、神ご自身がお喜びになっていてくださるという、キリストの十字架と復活を通して啓示された神の愛の中にあるのです。これを自分の行いの事にするとき、人は神と対立してしまうのです。
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伝道者ノート

1/2/2021

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パウロは、「世と調子を合わせていけない」(ローマ12:2)と教えます。クリスチャンがこれを読んで陥ってしまいがちな間違いは、「この世」的で、クリスチャンらしくない生活習慣を自分のライフスタイルから取り除いて行く努力を、自分が選んで、自分が実行することを、神が自分に要求している、と考えることです。

しかし、パウロがここで言っていることは、神ご自身の恵みと愛とご尽力によって、すなわち、聖霊の内住を通して人の内に働く、キリストの十字架と復活の力が、私たちを新しく造り変え、その結果、その人の心が「この世と調子を合わせない」ものとされ、神の御心をはっきりと知るようにされるということです。人が自分の力ではなく、神の恵みによって生きる自分を信じることで、クリスチャンは一つのからだとして集められ、結び合わされ、神の力がそのコミュニティを支配し、聖霊の力に由来する愛と赦しがお互いの必要を満たし合います。そこに教会が生まれます。

クリスチャンが、愛、赦し、善行、悔い改めなどの言葉を語るとき、それらを人の努力の結果として期待するのは、完璧な律法主義です。世の基準ではなくキリストの福音に基づいて、律法ではなく神のあわれみによって、肉ではなく霊によって、私たちがお互いに勧め合って言うならば、愛や赦しや善行や悔い改め(心の一新)とは、キリストが私たちを通して現わされる様々な聖霊の働きによる結実、私たちの行いを通して神の恵みが様々なかたちで表れる、神の出来事なのです。
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伝道者ノート

12/26/2020

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「ヤフーは23日、インターネット上の誹謗(ひぼう)中傷投稿の抑止対策として、人工知能(AI)を活用し、削除する対象をヤフーが運営する全ての投稿サイトに拡大することなどを盛り込んだ基本方針を発表した。」(毎日新聞記事へのリンク)この記事を読んで、私はふと考えました。「もし神様が、地上の人間の、すべての不適切な言動を削除なさったとしたら、どうなるだろう」と。

聖書は教えます:「正しい者はいない。一人もいない。…彼らの喉は開いた墓であり、彼らは舌で人を欺き、その唇の裏には蛇の毒がある。口は呪いと苦味に満ち、足は血を流そうと急ぎ、その道には破壊と悲惨がある」と。(ローマ3:10-16)聖書によれば、人間の生まれながらの肉体から出てくるものは、言葉であれ実際の行いであれ、それは毒と、破壊と、悲惨をまき散らすだけなのです(認めたくありませんが)。つまり、人間には、神の御前で価値を認められ、そして神に喜ばれる言動ができる可能性すらないのです。人間自身から出ることは、神の御前には、全て削除対象なのです。

だからこそ、神は、私たちをキリストと共に十字架で滅ぼされました。これによって、神に喜ばれる心、言葉、行いは、すべて、聖霊の力によって実現する時代になりました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私を生きておられることが教会の“いのち”となることを、神がお定めになられたのです。ここに、恵みがあるのです。
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伝道者ノート(ミニ黙想)

12/19/2020

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ヨハネ22:17 「(イエスは)三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』」

ペトロは、かつて三度に渡って主イエスを否認した。「3」とは象徴的に「完全」を意味する。ペテロは全力で、全人格で、完全に主イエスを否んだ。それがペテロの、私たちの、罪びととしての姿だ。しかし主イエスは、十字架と復活の神の力をもってペテロを、私たちを訪れ、神の言葉を息吹いてくださる。罪の赦しと愛を心に注いでくださる。「あなたは私を愛しているか?」と。私たちも、ペテロのように答える。自分の絶望の中から、告白する。「主よ、あなたは知っておられます。」

十字架で死んで私の罪を滅ぼし、復活して私に新しい命を与えてくださるキリストの御前では、私は、神を愛する根拠をもう自分に置くことはできない。キリストのために自分が生きる必要はもうない。むしろ、キリストが自分のすべてを生きて、永遠に生き続けてくださることを私は信じる。私が神を愛することは、主が、もうすでに、すべて、ご存じのことなのである。だからこそ、私は愛するのである。
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伝道者ノート(ミニ黙想)

12/13/2020

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「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死者を生き返らせ、[皮膚病]を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。」(マタイ9:7-11)主イエスはこのように仰せられ、弟子たちを宣教へと遣わしました。ここに、教会の存在の本質が現れています。

教会が、自分たちが無償で受けたのだから、どんな人にでも、無償で与え続けることができる祝福とは何でしょうか。使徒パウロはこう宣言します:「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされる」(ローマ3:23-24)。教会が天の神から受けて世界へと与える祝福とは、主イエス・キリストの十字架と復活の御業と、そこに注がれる神の恵みと愛です。

この十字架の富は、たとえ教会が会員や組織や土地や建物を失って無一文になっても、まったく価値を失わない、いや、むしろ人間の無力の中にこそ本領を発揮する、尽きることのない、偉大な神の力です。十字架に信頼する教会は、物的には衰えても霊的には燃えています。逆に、キリストの十字架の力に全面的により頼む信仰を失う時、教会は致命傷を負い、息絶えてしまうのです。
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