日本では、教会でフルタイムで働き、 説教や信徒のケアを担当する者を牧師と呼ぶ。 牧者として群れを導き、 そして、師として群れを教える。 したがって、「牧‐師」というわけ。 しかし、 私は、考えようによっては、 この呼び方は正しくないと思う。 なぜなら、 教会で「牧師」の立場に立つものは、 群れによって教えられ、 群れによって導かれ、 群れによって遣わされる 存在でもあるからだ。 たとえば、 牧師が説教台に立ち言葉を発するという行為は、 牧師が何か群れよりも高い聖書理解を持っているからではない。 決して、そういうことではない。 牧師が説教をするという行為は、 群れに押し出され、 励まされ、支えられ、 そして、神の言葉と対峙して それに聞くという任務を与えられた、 ということである。 牧師は、群れによって御言葉へと「派遣」され、 そして、そこで得たものをを持ち帰って 群れ全体と自らが養われるために、 それを皆と共有するのである。 |
権威者としての立場では決してない。
牧師は権威者として自分を立ててはならない。
また、教会の群れも、
牧師を権威者として立ててはならない。
教会を治める「権威者」は、
主イエスただお一人。
説教を生成して語る者も、
それを聞く者も、
共に、
主イエスに教えられるのだから。