使徒パウロは、ガラテヤのキリスト者たちに対して、「御霊に従って歩みなさい」と命令する。それは立った一つの命令。そして、その命令を守っているならば、そこには愛が生まれ、愛が生まれているならば、その生き方を裁くような律法は存在しないと教える。これは、(旧約、ヘブル語の)聖書に書かれた神の命令に忠実であるということを命がけで追求した、かつてのパリサイ人としてのパウロ(サウロ)とは真逆の生きる道である。しかし、パウロのそのような生き方の方向転換は、「劇的」という言葉が弱すぎるほどの変化だったはずである。なぜなら、パウロは、聖書の言葉に忠実に従うことが自らの生きる道であり、神に救われていることの根拠なのだという生き方を貫くために、人を殺(すことに心から同意)した過去を持っているからである。反対者を情熱をもって憎み、殺意に燃えて害するために奔走したほどの生き方を捨てること。これは過去の自分自身を完全否定であり、人にとって最も難しいことだ。
言い換えると、例えば30年間身を粉にして働き、地位を築き、その地位のために家族を犠牲にしたので関係性を失い、孤独になってもな働き続け、ライバルたちを蹴散らし、蹴落とし、滅ぼして、とうとう自分の会社を設立して巨万の富を築いた人が、【何かと出会って】、その結果富も、会社も、何もかも【無価値だ】と捨ててしまうようなことである。
パウロにとって、彼の人生も思想も生きる道も何もかもをひっくり返してしま他ほどの、その【出会った何か】とは何だったか。それは復活の主イエス・キリストと、彼に与えられた聖霊の力である。それは一人の人の心、思想、行動、すべてを根底から作り変え、まったく新しい人生を歩ませる力がパウロに働いたことを、彼自身が深く体験していたということである。その神の力に突き動かされたのが使徒パウロである。
私たちがパウロの手紙を読むときに、常に心に留めなくてはならないのは、パウロがそのような新しい命の中に、はつらつとして生かされていた人物であったということである。そのような、魂を神に常に突き動かされているキリスト者が書いた生きたテクストを、単なる【キリスト教についての教え】としか見ないとしたら、あるいは【自分が正しい信じる伝統や教理の正しさを証明するための根拠】としか見ないとしたら、そのような読み方は大きな損失と勘違いを招くだろう。それは、その書を書いた人の心を全く見ようとしない読み方だからだ。その人の言葉に心を傾けていないからだ。
しかし、自分自身のことについていうなら、長い間、そのような殺伐とした読み方で聖書と対峙してきたように思う。