<週報からの引用終わり>
一般的に言って、同じ仕事の量でも、その人の心の状態によって、それは、歯を食いしばって我慢して傷つきながら背負う重荷にもなれば、喜んで行える楽しい作業にもなる。一度、「こんなことをしてもつまらない」とか、「価値が無い」とか、「何にもならない」と思ってしまったら最後、その仕事は苦痛となり、やる気が無くなり、効率が落ち、責任感も減退する。そうなってしまうと、本当に、その人も、その人を雇っている人も、皆が苦しむことになってしまう。
ちょっと考えたいのだが、キリスト者は、何が楽しくて、クリスチャンであり続けようとしているのだろうか。そこには、喜んでいる心があるだろうか。喜びの無い心で、何をしても、それは、「こんなことをしてもつまらない」とか、「こんなことに何の価値があるのだろう」とか、そういう気持ちで行っていることになりはしないだろうか。
キリスト教は、世界の三大宗教として確立してしまっている。そこには、宗教的に世界に認められている政治的な力、社会的認知、経済的な豊かさが溢れている。そのような、この世にあっての豊かさや地位が素晴らしいものだと思い、その豊かさの一部になりたいという気持ちでキリスト者であり続けようとしている心は、自分の中にあるのではないだろうか。
「宣教と伝道とは何だろうか」という問いは、言い換えると、「どうやったら聖書を正確に語り、相手に理解させることができるだろうか?」という、自分の外側にある事柄を他に説明したり説得を試みようとすることとは違う。むしろ、自分の中に沸き上がる喜びがある時、それは自然に他者へと伝えられてゆくのである。