キリスト者は、生涯求道者だと思う(その意味では、洗礼について考え中の人を求道者と言うのは、まったく正しくない。洗礼は何かの始りであって、何か求めた末の到達点ではないからだ。それはさておき・・・)キリスト者は、自分自身のあり方に、決して満足しないで、常に何かを求めている。それは今でもそうである。 しかし、カルト的教会とかかわった当時、私が求めていた者は、【私はキリスト者だ】ということを、具体的、かつ実行的に【確証】してくれる何かだった。その乾いた心の部分(不安)に、カルト的教会は一時の答えと満足感を与えてくれたのだ。
その教会では、激しい祈りをする。祈りは一人が延々と祈り最後にアーメンというものではなく、一人の人の祈りの言葉が会衆のアーメンによって支えられ、一言ずつ祈りがその場で作られてゆくという感じだった。例えば、誰かの癒しを祈るならこんな感じだ:
私:父なる神様、御名を賛美します。 会衆:アーメン。
私:神様、だれだれさんが病気です。 会衆:アーメン。
私:神様、あなたには癒す力があります。 会衆:アーメン!
<このあたりで感情が高ぶってくる>
私:神様! あなたには癒す力があります! 会衆:そうです!アーメン!
私:神様!癒してください! 会衆:アーメン!
このような祈りの中には会衆との一体感があり、個人の祈りが共同体の信仰によって支えられる。そのような祈りは、自然に賛美にも似た、声をはっきりと出して力強く言葉を発するものとなる。・・・私は、そのような、教会との一体感に満足を覚え、陶酔した。そこには、伝統的な教会のありかたには見られない、何か新鮮で、魅力的で、そして・・・・【異質】な何かがあった。その異質さが何であったかは、後日、PART-2 で書きたいと思う。
そんな、【このグループにしかない】と思われるさまざまな活動と、そこで得られる満足感に惹かれて、私はこのカルト的教会と1年ほど交流した。その様子を傍から見ていたある友人が心配して、ある日、私に、こう質問した。
【なぜ、そのグループでなければならないの?】と。
私は、その問いかけに、心の中でこう答えた。
【そのグループにいなければ、神の恵みから落ちる。】と。
私は、そのように、【神様の恵み】を、特定のグループや、特定のキリスト者の【あり方】に限定しようとした自分自身の心を見たとき、我に返った。・・・そのように、人間的なものを頼りにして神様の恵みを引き寄せようとしたり、他の人から奪おうとしたりする心が、自分自身の中に芽生えて根を張ろうとしていることを示された時、その瞬間、私の心はこのカルト的教会から決別したのである。・・・【私は、そこにい続けてははならない。】と。その決別の出来事は、憎しみではなく、悲しみを伴ったものだった。親しくなった友人たちを捨てたのだから。
今振り返ると、この自己の心の内観と吟味と、瞬間的・決定的な人との決別の決意は、【奇跡】と言って良い、聖霊の導きだったと思うのである。自分が求めているものと真逆のものを得ようと躍起になっていた自分に、神様がSTOPをかけられたのだ。それも、人間的な正論や、カルト批判の長々しい説明や説得や説教を通してではなく(そういうものを通しては、人は逆に執着する)、たった一言の問いかけによって、私の心の奥深いところに潜んでいた罪を、無理やりではなく、自分自身で、無意識のうちに掘り起こさせて、明るみに出し、私自身を愕然とさせる出来事を、神様は創造して下さったのである。
次回、PART-2では、このカルト的教会が、外見的には素晴らしく力強く霊的に優れていると見える色々な行為の背後で、私の心に教え(植え付け)ようとした異質なモノの正体について、少し詳しく考えてみようと思う(いつになるかわかりませんが)。