教会総会が近づいている。
あと一か月もしないうちに、
その日はやってっ来る。
伝道者(牧師)の私の役割として、
年頭聖句の選出と、
牧会案の作成がある。
今後一年間、
教会が寄り頼む聖句。
それを、
明日さえ見通せない、
牧会経験わずか3か月の私が、
行うというのだ。
まじですか?
これは、
新入社員に、
会社全体の年間スローガンと
経営方針の原案を作成せよと
求めているのと
同じである。
ここで、
この大役を仰せつかった平社員が取れる
行動はただ一つである。
社長室に殴り込むのだ。
もちろん社長を殴るためではない。
社長に助けてもらうためだ。
同僚に聞いてはいられない。
係長でもだめだ。
課長も、部長も、今回ばかりは頼れ無い。
直接社長に聞くしか、
平社員がこの責任を果たせる道はない。
だって、
平社員なんだから。
私も、
神様に殴り込みをかけるしかない。
聖霊に助けてもらうために。
主イエスに道を示していただくために。
一年後、五年後、十年後、
そういった視野で教会を導けるのは、
主イエスおひとりの他、
誰一人としておられないのだから。
・・・それはそうとして、
年頭聖句を決める習慣って、
いつから、
誰が始めんたんだろう?
新約聖書には、
一言もそういう習慣については書いてないんだが・・・。
神様は毎日新しい御ことばを語られる。
キリスト者の一年は、
年頭聖句が舵取りをするのではない。
むしろ、
毎日示される小さな御言葉連続が、
毎日の舵取りだ。
舵を取られる船は船頭さんの言いなりだ。
今日は東と思ったら、明日は西へ。
東西南北、自由自在だ。
毎日、
神様を見上げて生きることが、
神様にお従いすることが、
キリスト者として生きることだ。
その意味では、
それこそ、
「見よ:Behold!」
の一言で良いかも・・・と
ふと思った。