前回の記事では、私が、かつてカルト的教会から離れた経緯について書いた。そのグループと出会ったとき、私はそこで行われていた力強い祈りや、聖書を深く学ぼうとする仲間たちの熱心さに・・・・・・惚れた。そして、その仲間たちと交わりを深めてゆく中で、私の心の中に生じ始めた【異質なモノ】のに気づかずにいた。その異質なモノの正体は何だったのだろうか。今回の記事では、それを取り上げたい。
私がここでカルト【的】と書いているのは、私が関わったそのグループが、キリスト教界において広く一般的に(モルモン教やエホバの証人のように)異端・カルトとは認知されていないからである。しかし、そこで教えられていたことを、以下に列挙する。カルトについての経験と知識がある人には、ピンとくることだと思う。
そのグループは:
1)独自の聖書翻訳を使い、それが霊的な啓示に基づくものだと主張する。(この時点で赤信号なのだが・・・)
2)自分たち【こそ】、主が望まれている固有な教会だと主張する。
3)既存の教会(や聖書の翻訳)は、伝統に毒されていると批判する。
4)グループの開祖的存在(中国人)の投獄経験等を強調する。
5)グループ独自の出版物が多数あり、読むことを勧められる。
今現在の私の感性からは、上のような特徴を持つグループは危険だと直感する。しかし、自分自身の信仰に具体的な確証と表現を求めて【さまよっていた】私の心は、その危険を感知できなかったし、意図的に無視していたのかもしれない。何が危険かというと、上のような特徴を有する集まりは、次のような段階を経て人の心を苛むからである。(注意: 筆者はカルト問題に詳しいわけではないので、あくまでも自身の体験の範囲での考察であることを前もって理解した上で、読んでいただきたい。)
STEP-0
最初に、グループには、笑顔と、豊かな祈りの言葉と、楽しい賛美と、食事などによる、愛の表現があふれている。まず、そこに人間同士のつながりとしての楽しさと魅力があり、惹きつけられた。
STEP-1:
独自の出版物に神の真理があると主張する(あえて他には真理はないとは言わない)ことで、ひそかに、無意識のうちに、言論統制、情報操作、意識改革が行われた。現代においては、【出版された書籍】に、ほぼ自動的に信ぴょう性を認めてしまう風潮があることも一因となって、ちょっと変だなと思わされる教えも、受け入れてみようという気持ちになってしまった。偽りの信頼性である。
STEP-2:
自分たちの独特な正しさを、聖書を解釈して主張するので、キリスト者であった私には、それが強い説得力となって迫った。伝統キリスト教会が救いの条件としている主イエスの十字架、復活、昇天などの事柄は全く否定しないので、正当な教会の集まりだという印象が強くなった。グループへの信頼が固まり始めた。
STEP-3:
その信頼感と聖書の解釈をバックに、既存の伝統的な教会を自分たちより 【ワンランク下】の正しくない教会と位置づけるので、そこ(在籍している教会)に連なり続けることで、自分は真理を見逃している・取り逃がしているのだ、という不安があおられ、転会を考慮するようになり、同じように転会を促したいという気持ちになった。
つまり、愛が不安を生じさせたのである。これが、前述した【異質なもの】の正体だ。言い換えると、そのグループと私との間に一種の取引が生じていたということだ。すなわち、私はそのグループの中で何かを得るために、何か大切なものを代償として失ったのである。 取引の対象として私が手に入れたのは、活き活きとしたキリスト者らしく見える宗教的な自己表現と、信仰の内的な確信があふれていると感じることのできる、一つの【場】だった。 しかし、その代償として、私が失ったのは、神に無条件で恵みによって愛されるという、かけがいのない【心の平安】だったのである。
言い換えれば、私は、このカルト的クリスチャン・グループと関わることで、一方で喜びを与えられながら、他方で【ここを離れられない】という不安に落ち込んでゆくという、隷属的な関係を体験していたのである。それは信仰には異質な、主イエスの愛とはまったく関係のない、人が人を支配しようとするプロセスだったのである。そのように、人の奴隷になりつつあった私の心を我に返して解放したのは、【なぜ、そのグループでなくてはいけないのか?】という、たった一言の、問いかけだったのである。
今にして思えば、大変に貴重な体験を通されたのだと思う。