『そして、手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われます。』 (新共同訳)
『また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。』(新改訳)
ここで、英語がわかる人は、上の日本語訳と、下の English Standard Version (ESV) の訳を比較してほしい。注意してほしい部分に、下線をつけておく。
”His winnowing fork is in his hand, to clear his threshing floor and to gather the wheat into his barn, but the chaff he will burn with unquenchable fire.”(ESV)
一応ギリシャ語も:
οὗ τὸ πτύον ἐν τῇ χειρὶ αὐτοῦ διακαθᾶραι τὴν ἅλωνα αὐτοῦ καὶ συναγαγεῖν τὸν σῖτον εἰς τὴν ἀποθήκην αὐτοῦ, τὸ δὲ ἄχυρον κατακαύσει πυρὶ ἀσβέστῳ. (αὐτοῦ という単語が、彼の、という意味)
お気づきになられただろうか?英語の訳(と原語)を見ると、この収穫の場面で一人の人物がまことに積極的に働いていることが明らかになっているのである。農耕器具である『箕(winnowing fork)』を持っているのは、農家本人の手であり、脱穀場(threshing floor)、そして麦が納められる蔵(barn)も、この農家本人の所有なのである。これは神の救いを考える上で、とても大切な事柄である。つまり、この収穫のたとえ話の中での農家が救い主である主イエス・キリストであるならば、収穫作業をされるのは主ご自身の熱心であり、その作業の場としての脱穀場は主ご自身が創造されたこの世界であり、そこでキリストが獲得された麦、すなわち救われた者たち一人ひとりは、主ご自身の倉の中にその価値を保たれ、永遠の命を持つという対応を描くことが可能となるからである。
別の言い方をすれば、主イエスご自身が私たちを救い(収穫し)、そしてご自身のものとして私たちを永遠に守られる(倉に納める)のであり、主イエスは、この救済の働きを、ご自分以外の誰にもお任せにはならず、収穫した私たちをご自分以外の誰もお渡しにはならないのである。そのように、私たちは、神の御子イエスキリストに愛されているのである。
・・・しかし、この救い主である主ご自身が、殻を火の中に投げ入れるとヨハネは教えている。主イエスは救い主であるのと同時に、裁き主でもあられるのである。しかし、ここで考えたい。その火は、誰の所有だろうか。ヨハネは教えない。その火は、神の所有の火ではない。ただ、永遠に燃え盛る火である。その火の中には神はいない。その火に対して、主イエスは背を向けられる。神の所有ではない状況の中に置かれてしまうこと・・・。神が救いの手を差し伸べられない現実に陥ってしまうこと。それは、本当に恐ろしいことではないだろうか。
苦しみの中にあっても、神に救いを叫び求めることができるのは、
幸せの中に安住しつつ、神のいない世界に生きることに、はるかに優れている。
神の救いは、暗闇の中に輝く光なのである。