大みかキリストの教会の歴史
本 教会の沿革を考える場合、茨城キリスト教学園との関係無しには考えられない。すなわち、1948年(昭和23年)4月にシオン学園高等部が開校され、その 年の1月に来日した3人の宣教師の一人のバージル・ローヤーが高等部校長に就任し、高校校舎(元日立電鉄工事部事務所)を使って日曜礼拝が行われたのが本 教会の始まりであった。そして、ローヤーを中心として朝拝、夕拝が続けられていた。
その後、1949年4月にシオン・カレッジ校舎(学園高校記念館)の完成と共に集会は同校舎2階に移動し、日曜学校も始められ、礼拝には学園関係者のほかに近くにある回春荘病院の療養者も多数出席するようになった。そして、この年の5月28日には合同礼拝が行われている。
この頃になると、学園内に宣教師住宅も次々と建てられ、多くの宣教師が大みかに居住しながら県内のみではなく県外各地の伝道のために活発な活動を繰り広げ ていた。ローヤーが帰国し、1950年ころからは、学園総長のローガン・ファックスが主説教者となり、1961年(昭和36年)に帰米するまで活動の中心 となっていた。1950年3月に短期大学が設立認可となり、短大校舎が完成すると同校舎内の講堂に集会は移り、多賀から移転してきた岡正一、長埜盛、それ に山口隆太郎、森貞昭三などが役員として教会運営に当たると共に、外部教会への伝道活動をも熱心に続けていた。
この頃になると学生・生徒の教会礼拝への参加も多くなり教会員の数も徐々に増えていき、1952年から初めて専任伝道者となった萱間平吉の活躍もあって、教勢は急速に伸び、教職員とその家族、学生・生徒に加えて、地域の人々の礼拝参加者も数多く見られるようになった。
その当時、学園内の敷地に教会事務所が建てられ、洗礼槽も設けられていた。1961年に萱間平吉が土浦に移転し、その後任として短大教員であった高尾利数が 伝道者となり、空き家となっていたローガン・ファックスの住宅を教会用として伝道者が居住し、そこで礼拝が持たれたが、会員数の増加に伴い、再び短大校舎 に戻って礼拝が続けられた。
1964 年(昭和39年)に、アメリカの諸教会から教会堂建設のために寄せられた献金を基に、教会役員を委員とする建築委員会が発足し、後に学園関係者も加わった 委員会によって建築計画が立てられ、講堂兼礼拝堂が1965年11月に完成して献堂式も行なわれた。2008年4月まで朝拝が続けられた。
この時、建築資金借り入れの関係から建物は学園名義となったが、相互に文書を交わすことなく推移し、これが後々教会と学園との間に会堂問題を生じ、未解決の事項となって今日に及んでいる。
1962 年(昭和42年)には岡正一、長埜盛、ビリースミスの3名が長老に任命され、教会の伝道牧会への責任を負っていたが、1971年に長埜盛が召天し、スミス が沼津に転任してからは、マックスマウラーとハワードホートンが長老に加わり、マックスマウラーが帰国してからは岡正一、ハワードホートンが長老として教 会指導に当たった。ハワードホートンは帰米。来日を繰り返していたが、最終的に1978年に帰国してからは複数の長老を立てることがかなわず長老制度を廃 止し役員制度に戻し、現在まで役員が教会運営の責任を負い続けている。1969年に、それまで沖縄で伝道を続けていた土井貢が専任伝道者となり、1975 年までの6年間活躍した。そして、1975年9月には、沼津において伝道していたスティーブハズブルクが伝道者となり、1979年9月札幌へ移転するまで 伝道牧会に大きな足跡を残した。また、その間、ジムバットンと沢畑明豪が副伝道者として大きな働きをしている。1979年10月からは、大みかに居住しな がら県内各地で宣教を続け、御茶の水キリストの教会宣教師であったジョーベッツを伝道者として迎えた(2005年帰米)。また、1982年12月より、安 宅秀樹がニューギニア伝道へ行くまでの1年間をジョーベッツのもとで副伝道者として奉仕活動をすることになったが、ニューギニア伝道の計画が変更になり、 その後は伝道者として活動しながら現在に至っている。
本教会は茨城キリスト教学園内において始まり、学園の規模が増大し学生・生徒が増加すると共に福音伝道の働きも強まり、教会を通して信仰を得て社会に巣 立っていった者も数多く、大きな役割も果たしてきた。しかし、一方では、この地域の教会として、逆にその立地条件が学園外の人々には入りにくい教会という 問題もあった。特に、学園の規模増大化と共に、施設も増加し、管理体制も強化されて正門には守衛所も設けられて出入者のチェックをするようになってからは 学園関係者以外の人々には教会に来ることに抵抗感があるといわれてきた。そうした状況から、礼拝堂が建設された数年後には、教会は地域社会に出て伝道活動 をし、地域に密着した教会形成をなすべきとの意見となり、学園外へと移転すべしとの意見となり、宗教法人化の問題と併せてその方法を探ったのであったが、 それらに関する学園総長との話し合いも進展を見なかった地域への伝道方法として、積極的に外部の施設を借りて伝道会を行なったりして成果も上げていたが、 それらの施設も思うようには借り得なくなっていた。
1976 年(昭和51年)に、アメリカへ帰国されていたE・W・マクミランからの照会もあり、名義変更問題に対する要請書を学園理事長宛に提出し、紆余曲折の後、 アメリカの教会代表として来日したゲイナスたちと学園との話し合いで学園外への移転についての合意書を締結するに至った。
その後も、会堂問題に関する話し合いは継続され、学園はそのための土地の取得をした。ここ数年の話し合いの中で、宗教法人人格を取得することが望ましいとの結論に達し、外部に集会所を設け、その施設によって法人格を取得する方法が考えられた。1994 年(平成6年)に、大みか3丁目の学園の土地の一部を借用し、2階建て、127.58㎡の集会所兼伝道者住宅が教会資金によって建設され、多賀キリストの 教会の協力も得て、宗教法人の認証を申請することが出来、1994年に念願の宗教法人格を取得するに至った。これにより、大みか地区への伝道の拠点が与え られ、様々な集会に活用されるようになった。また、学園との間の会堂問題も宗教法人としての話し合いが継続されて行った。当時、朝礼拝は学園内の礼拝堂で 行なわれ、夕礼拝は大みか伝道所において行なわれた。
会堂問題がどのように決着するかは不明であるが、学園内にあっては学園と協力して学生生徒への福音伝道を目指し、伝道所を拠点としては地域への福音伝道活動をさらに積極的に展開したいと願っている。
(米田昭吾 記)
(以上は、「キリストの教会史(茨城以北版)」”大みかキリストの教会”の項を引用。現在に合わせて多少手を加えている)
追記:その後、学園との話し合いがすすみ、学園によって大みか3丁目伝道所横の敷地に新会堂が2007年秋着工、2008年春完成。それをもって会堂問題はひとまず決着した。2008年4月から新会堂で朝、夕ともに礼拝が行なわれている。
その後、1949年4月にシオン・カレッジ校舎(学園高校記念館)の完成と共に集会は同校舎2階に移動し、日曜学校も始められ、礼拝には学園関係者のほかに近くにある回春荘病院の療養者も多数出席するようになった。そして、この年の5月28日には合同礼拝が行われている。
この頃になると、学園内に宣教師住宅も次々と建てられ、多くの宣教師が大みかに居住しながら県内のみではなく県外各地の伝道のために活発な活動を繰り広げ ていた。ローヤーが帰国し、1950年ころからは、学園総長のローガン・ファックスが主説教者となり、1961年(昭和36年)に帰米するまで活動の中心 となっていた。1950年3月に短期大学が設立認可となり、短大校舎が完成すると同校舎内の講堂に集会は移り、多賀から移転してきた岡正一、長埜盛、それ に山口隆太郎、森貞昭三などが役員として教会運営に当たると共に、外部教会への伝道活動をも熱心に続けていた。
この頃になると学生・生徒の教会礼拝への参加も多くなり教会員の数も徐々に増えていき、1952年から初めて専任伝道者となった萱間平吉の活躍もあって、教勢は急速に伸び、教職員とその家族、学生・生徒に加えて、地域の人々の礼拝参加者も数多く見られるようになった。
その当時、学園内の敷地に教会事務所が建てられ、洗礼槽も設けられていた。1961年に萱間平吉が土浦に移転し、その後任として短大教員であった高尾利数が 伝道者となり、空き家となっていたローガン・ファックスの住宅を教会用として伝道者が居住し、そこで礼拝が持たれたが、会員数の増加に伴い、再び短大校舎 に戻って礼拝が続けられた。
1964 年(昭和39年)に、アメリカの諸教会から教会堂建設のために寄せられた献金を基に、教会役員を委員とする建築委員会が発足し、後に学園関係者も加わった 委員会によって建築計画が立てられ、講堂兼礼拝堂が1965年11月に完成して献堂式も行なわれた。2008年4月まで朝拝が続けられた。
この時、建築資金借り入れの関係から建物は学園名義となったが、相互に文書を交わすことなく推移し、これが後々教会と学園との間に会堂問題を生じ、未解決の事項となって今日に及んでいる。
1962 年(昭和42年)には岡正一、長埜盛、ビリースミスの3名が長老に任命され、教会の伝道牧会への責任を負っていたが、1971年に長埜盛が召天し、スミス が沼津に転任してからは、マックスマウラーとハワードホートンが長老に加わり、マックスマウラーが帰国してからは岡正一、ハワードホートンが長老として教 会指導に当たった。ハワードホートンは帰米。来日を繰り返していたが、最終的に1978年に帰国してからは複数の長老を立てることがかなわず長老制度を廃 止し役員制度に戻し、現在まで役員が教会運営の責任を負い続けている。1969年に、それまで沖縄で伝道を続けていた土井貢が専任伝道者となり、1975 年までの6年間活躍した。そして、1975年9月には、沼津において伝道していたスティーブハズブルクが伝道者となり、1979年9月札幌へ移転するまで 伝道牧会に大きな足跡を残した。また、その間、ジムバットンと沢畑明豪が副伝道者として大きな働きをしている。1979年10月からは、大みかに居住しな がら県内各地で宣教を続け、御茶の水キリストの教会宣教師であったジョーベッツを伝道者として迎えた(2005年帰米)。また、1982年12月より、安 宅秀樹がニューギニア伝道へ行くまでの1年間をジョーベッツのもとで副伝道者として奉仕活動をすることになったが、ニューギニア伝道の計画が変更になり、 その後は伝道者として活動しながら現在に至っている。
本教会は茨城キリスト教学園内において始まり、学園の規模が増大し学生・生徒が増加すると共に福音伝道の働きも強まり、教会を通して信仰を得て社会に巣 立っていった者も数多く、大きな役割も果たしてきた。しかし、一方では、この地域の教会として、逆にその立地条件が学園外の人々には入りにくい教会という 問題もあった。特に、学園の規模増大化と共に、施設も増加し、管理体制も強化されて正門には守衛所も設けられて出入者のチェックをするようになってからは 学園関係者以外の人々には教会に来ることに抵抗感があるといわれてきた。そうした状況から、礼拝堂が建設された数年後には、教会は地域社会に出て伝道活動 をし、地域に密着した教会形成をなすべきとの意見となり、学園外へと移転すべしとの意見となり、宗教法人化の問題と併せてその方法を探ったのであったが、 それらに関する学園総長との話し合いも進展を見なかった地域への伝道方法として、積極的に外部の施設を借りて伝道会を行なったりして成果も上げていたが、 それらの施設も思うようには借り得なくなっていた。
1976 年(昭和51年)に、アメリカへ帰国されていたE・W・マクミランからの照会もあり、名義変更問題に対する要請書を学園理事長宛に提出し、紆余曲折の後、 アメリカの教会代表として来日したゲイナスたちと学園との話し合いで学園外への移転についての合意書を締結するに至った。
その後も、会堂問題に関する話し合いは継続され、学園はそのための土地の取得をした。ここ数年の話し合いの中で、宗教法人人格を取得することが望ましいとの結論に達し、外部に集会所を設け、その施設によって法人格を取得する方法が考えられた。1994 年(平成6年)に、大みか3丁目の学園の土地の一部を借用し、2階建て、127.58㎡の集会所兼伝道者住宅が教会資金によって建設され、多賀キリストの 教会の協力も得て、宗教法人の認証を申請することが出来、1994年に念願の宗教法人格を取得するに至った。これにより、大みか地区への伝道の拠点が与え られ、様々な集会に活用されるようになった。また、学園との間の会堂問題も宗教法人としての話し合いが継続されて行った。当時、朝礼拝は学園内の礼拝堂で 行なわれ、夕礼拝は大みか伝道所において行なわれた。
会堂問題がどのように決着するかは不明であるが、学園内にあっては学園と協力して学生生徒への福音伝道を目指し、伝道所を拠点としては地域への福音伝道活動をさらに積極的に展開したいと願っている。
(米田昭吾 記)
(以上は、「キリストの教会史(茨城以北版)」”大みかキリストの教会”の項を引用。現在に合わせて多少手を加えている)
追記:その後、学園との話し合いがすすみ、学園によって大みか3丁目伝道所横の敷地に新会堂が2007年秋着工、2008年春完成。それをもって会堂問題はひとまず決着した。2008年4月から新会堂で朝、夕ともに礼拝が行なわれている。