2020年 6月(June)の説教録音
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![]() 「迫る愛」
2020年 6月28日 ヨハネ連続講解(第22回) 第5章 18節から24節 舘野 真(伝道者) クリスチャンは、信仰の結果として、何を得るのでしょうか。もし、私たちが、「信仰とは、教理を信じ、教会に通い、奉仕をし、礼拝を行い続けることだ」、としか言いようがない場合、その信仰は、石のように固まってしまった、人間の頑張りの塊(かたまり)です。そんなとき、私たちには、自分の力や行いの自慢はあっても、神を心から喜ぶ幸せがありません。 そんな硬直してしまっている私たちの魂へと、十字架と復活のことばを通して、主イエスの愛は突き出されています。キリストの十字架の姿の中にこそ、私たちが知るべき神の真の栄光と、私たちが信じるべき自分の真の姿が現わされています。御子の十字架の下で、死者に等しい私たちに、新しい「いのち」を与えてくださる御父の愛が注がれます。御子の十字架と復活を通して以外には、人は、愛にあふれる御父と出会うことは決してないのです。 他ならぬ主イエスの十字架を通して神の愛を信じるその瞬間、私たちはキリストと共に葬られてしまいました。だからこそ、私たちの罪が裁かれることはもう絶対に無くなったし、同じ理由で、私たちの努力による善行が神に承認されることも絶対に無くなりました。むしろ、私たちは、キリストの復活のいのち与えられて、神ご自身の愛の中に、もう移していただいているのです。 主イエスの十字架を通して神の愛を知り続けることこそ、クリスチャンが信仰の結果として獲得する、一生の心の宝ものなのです。その宝ものを得て、私たちが喜びに満たされるようにと、神は私たちの心にみことばを語り続けてくださるのです。 (2020-06-28) ■ |
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https://youtu.be/bIRBNyobLTk ![]()
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「私ではない私に、生きる」
2020年 6月21日 ヨハネ連続講解(第21回) 第5章 14節から18節 舘野 真(伝道者) 神の愛は、私たちにとって心地よいものとは限らない。神は、時に、私たちを打ち倒し、お砕きになる。しかし、主の恵みの中で砕かれた魂は、神の愛を真に知るようになる。神は、あらゆる方法で私たち一人ひとりの人生に触れ、ご自身の愛を私たちの心に注ごうと常に尽力しておられる。 ユダヤ人には、安息日に働いてはならないという鉄の掟があり、指導者たちはその日に歩ける距離まで規定し、違反者を罰した。しかし主イエスは、安息日にこそ人を癒す働きを熱心に行い、安息日の掟を廃棄してしまうことで、ユダヤ人指導者たちを打ち砕いてしまった。そして、彼らに新たな「いのち」を与えようとお語りになった。真の安息日とは、父なる神が世界を祝福する働きを、永遠の昔から今に至るまで、ずっと行い続けていてくださることを人が信じる日なのだと。人間が、神の一方的な愛に満たされ健やかであることが、安息日に神が望んでおられることなのだと。 神はキリストを通して、ご自身の偉大な恵みと燃えるような愛を、私たちに突き出される。人間のあらゆる抵抗をものともしない、その圧倒的な神の愛の前に、自分の力や正しさによって愛されようとしきた「古い」私たちの存在は砕かれてしまう。 しかし、そこにこそ、もう神の愛を疑うことができない、「新しい」私が生まれる。キリストの十字架と復活を通して与えられた「私ではない私」にあって、神の愛に満たされて、恐れるものは何もなく、私は生きるのである。今も、これからも、永遠に。 (2020-06-21) ■ |
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「あなたのために」
2020年 6月14日 ヨハネ連続講解(第20回) 第5章9節から14節 舘野 真(伝道者) 人間にとって、主イエス・キリストを通して、神の愛を知ることよりも大切なことは、何一つありません。礼拝を整然と行うことよりも、一人ひとりがキリストの十字架を通して神の愛を知ることのほうが、はるかに大切です。現世で幸せな生涯を送ることよりも、むしろ、苦しみの中でキリストの復活を信じて神の愛を知ることの方が、はるかに有益です。 キリストの十字架と復活は、あらゆるものの意味を一変させます。「もう罪を犯すな」という命令も、キリストを通して私たちをお救いになる神の愛を信じる時、その意味が変わります。十字架によって、その言葉は、もう命令ではなく、罪びとをご自身の御子と結び合わせ、もう罪を犯すことができない天の存在として、私たちを新しく創造してくださる、神の約束へと変わります。 主イエスの十字架と復活が、天の祝福の門を私たちに開きます。神の命令は、神の命令を守れない私のために、神ご自身が聖霊を通してその命令を私に成就してくださるという、それを信じるだけでよい、神の約束へと変わります。また、主イエスにあっては、私の苦しみは、神の愛を知るための恵みに変わり、私の「死」さえも、天にある、罪のない、悪いことも起こらない、新しい、永遠のいのちへの入り口として、その意味が一変します。 キリストの十字架と復活の力が、私たちが生きている意味も、聖書のみ言葉の意味も、すべてを、神が「あなたのために」と与えていてくださる愛へと一新するのです。クリスチャンは、この愛をキリストの十字架を通して信じ、御父愛を聖霊を通して注がれ、歩み続けるのです。今も、そして、永遠に。 (2020-06-14) ■ |
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「心優しい神に、
ひれ伏す」 2020年 6月7日 ヨハネの黙示録 7:9-17 礼拝再開メッセージ 舘野 真(伝道者) 今朝、私たちは2か月ぶりに礼拝を「再開」しますが、この時こそ、私たちは勇気をもって問うべきです。「今までの礼拝は、真に礼拝だったか?」。そして、「これからの礼拝は、真に礼拝か?」と。真に礼拝ではない礼拝を再開し継続することに、何の意味があるでしょう。 真の礼拝とは、会堂に集まり、賛美、聖餐、説教などを整然と(正しく)行うことでしょうか。逆に、会堂がなく、賛美や聖餐式を行わないと、真の礼拝ではなくなるのでしょうか。このように、自分たちの礼拝の真偽を問うことは、私たちを揺さぶり、不安にさせるかもしれません。 しかし、そんな中、神は、黙示録のみことばを通して、「見よ!」と、真の礼拝を啓示なさいます。そして、私たちは見ます。天では、救われた聖徒たちと天の御使いたちが、心を一つにし、神と子羊イエスに、あらゆる感謝と賛美を捧げ、皆が、全能の神の御前にひれ伏す姿を。そして、父なる神と御子イエスが、愛と恵みの御手で、聖徒たちに触れてくださっておられる姿を。 これこそが、真の礼拝です。真の礼拝とは、偉大な神の御前に私たちが平伏し、そこに神ご自身が現れて下さり、悩む者、悲しむ者、痛む者の涙をぬぐってくださる、慰めのできごとです。神の驚くべき偉大な心優しさに、私たちは心を打たれ、感動し、変えられ、立ち上がらされて行くのです。 真の礼拝とは、会堂や儀式の有無に拠りません。礼拝とは、私たちが、主イエスの十字架と復活の力によって、あらゆるものを越えて、心優しい神の愛の中へと導かれ、慰めを受ける、天から地へと降る、聖霊を通して注がれる、生きる望みです。 私たちの礼拝は、真に礼拝でしょうか。問い続けましょう。真の礼拝の中にこそ、教会の明日があるからです。 (2020-06-07) ■ |