大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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2020年 7月(July)の説教録音


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2020_07_26_たましいの所在
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「聖書の本領」
2020年 7月26日
ヨハネ連続講解(第26回)
第6章 1節から13節
舘野 真(伝道者)


クリスチャンの誇りは、神が、喜んで私たちを救ってくださる、神の愛です。だから、自分が何かをして神を喜ばせなければならないと信じてしまうなら、その人の信仰は喜びのない辛い労働となってしまいます。

神は、無理難題と思える困難を人にお与えになる時がありますが、それは人を苦しめるためではなく、むしろ神の救いを人が知るための試練です。二千年前、主イエスは、大群衆に今ここで食事を提供するという難題を弟子たちに投げかけます。弟子たちは口をそろえて、「無理です」と答えます。主イエスは、その弟子たちの無力の中に、天の御父の力により、何もない場所にパンを創造し、すべての人々を恵みによって満ち足らせて下さいました。
 
私たちにとっても、生きるということ自体が難題です。どんなに美しく豊かに生きても、死によってすべてが失われます。人が自分の力で、神の御前に生きるということは、絶望的に無理なのです。でも、私たちの無力の中にこそ、神は、御子イエスの十字架と復活の力を与えてくださったのです。
 
私たちは、自分の人生の「かご」の中に、努力して手に入れた様々な宝を大切に持っています。しかし、神が与えてくださる、天の宝、真のいのちのパンは、他でもない、御子ご自身の「いのち」なのです。神は、キリストによってご自身の愛を私たちの心に注ぎ、私たちのたましいを平安で包み、喜びで満たしてくださるのです。御子イエスと結ばれ、キリストの内に在ることが、私たちのたましいの所在なのです。     …あなたは、今、どこにいますか?

■


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2020_07_19_聖書の本領
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「十字架:聖書の本領」
2020年 7月19日
ヨハネ連続講解(第25回)
第5章 39節から47節
舘野 真(伝道者)


クリスチャンは、「聖書の通りに行動することで、神に愛され、喜ばれるのだ」と考えて、聖書的な善行や、奉仕や、礼拝を行おうとします。しかし、自分の力で自分を何とかしようとする心で聖書を読む人は、遅かれ早かれ、実に困った状態(危機)に落ち込みます。
 
人は、自分の力で聖書に従おうとすることで、聖書的な自分の行いを誇り、自分と同じような人たちとお互いを称賛し合い、自分で作り上げた自分の美しさという小さな箱の中に閉じこもってしまいます。

そこでは、罪びとを救う主イエスの偉大な愛は忘れられ、むしろ、他者を裁く鋭い視線、喜びを失った恐怖、人間同士の争いが支配してしまいます。聖書が私たちを不幸にしているのだろうか?とさえ思えてしまいます。
 
そんなとき、私たちは、聖書の本領を思い出す必要があります。聖書は、人の行いについての命令や模範ではありません。むしろ、神の愛を失い、神を愛するどころか、神に敵対することしかできない私を、キリストへと導くために聖書は存在します。主イエスの十字架と復活の御業を知り、御子を信じて、私たちが救われることが、聖書の本領なのです。

神は、あなたを愛し、御子の十字架と復活によって、神の子とされるために、ご自身のひとり子を、ご自身のみことばを、聖書を、あなたに与えてくださったのです。聖書を通してキリストを信じる信仰へと導かれ、神の恵みと愛に包まれる祝福を、聖書はあなたに与えようと、語るのです。その祝福に満ち溢れたみ言葉は、私たちの心を喜びで満たすのです。
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2020_07_12_真の神との出会い
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「十字架:真の神と出会う場所」
2020年 7月12日
ヨハネ連続講解(第24回)
第5章 31節から38節
舘野 真(伝道者)


クリスチャンは、信仰に入ると、自分を以前よりも“清く正しく美しい”存在にしようと思い始めます。そのうえ、自分の努力によって、なんと神の御子、キリストの姿に近づこうとさえします。
 
しかし、永遠に自己実現しない、この無駄な努力の中で、クリスチャンは疲弊し、神は恐ろしい裁判官となり、神の愛のない信仰生活によって、心が深く傷ついて癒されることがなく、イライラや、争いや、分裂が生じます。
 
クリスチャンと教会にとっての急務は、自己を改善する努力や頑張りではありません。それよりもはるかに大切なことは、私たちが、主イエスの十字架を通して真の神とお出会いし、神の偉大な愛を信じる確信に深められることです。キリストの十字架を通してご自身を開示なさる真の神は、人の努力を要求せず、むしろ、神ご自身が尽力して人を愛してくださる方なのです。だからこそ、バプテスマのヨハネはかつてこう証言したのです:「見よ!世の罪を取り除く、神の子羊!」と。
 
クリスチャンとしての標準的な生き方は、先ず自分たちの努力や行いによって神を喜ばせようとする余力をすべて捨て去り、自分に死ぬことです。そして、御子の十字架が啓示する神の愛が私たちを慰め、励まし、立ち上がらせるような、キリストの復活の「いのち」のすばらしさを知ることです。

御子の十字架と復活によって御父が成し遂げてくださった救いの偉大さを、心に示していただきながら、日々、神に感謝して生きるだけで、十分なのです。私たちが頑張る必要は、もうまったくないのです。

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2020_07_05_裁かれる喜び
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「神に裁かれる喜び」
2020年 7月5日
ヨハネ連続講解(第23回)
第5章 24節から30節
舘野 真(伝道者)


「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と聖書は教える(へブル9:27)。このような言葉を私たちは恐れ、神の裁きから逃がれようと、必死に努力する。しかし不思議なことに、神に愛されようと努力すればするほど、神の愛は遠ざかり、人はさらに神を恐怖してしまう。主イエスは、そんな私たちを、ご自身の命をかけた御ことばによって、真の神との喜ばしい出会いへと、引き戻してくださる。
 
父なる神が、万物にいのちを吹き込む権能をお与えになったのは、私たちの罪がすべて赦されるために、ご自身の命を十字架でささげてくださった御子である。同時に、御父が万物を裁く権威をお与えになったのは、私たちを愛すること以外の何もなさらず、心優しくへりくだっておられる神の子羊、神の独り子イエスである。
 
それゆえに、神が、御子を通して下す裁きの中では、人の目にあっての善行や悪行が、神の御前には一切問われない。むしろ、神は、人間の罪をその人の存在もろともキリストと共に十字架で葬り去り、死者とされたその人を、キリストと共に復活させて、まったく新しい人へと創造してくださる。
 
御子の十字架を通した救いの御業を、御父の御心であると信じる者は、神の裁きから逃げるのではなく、むしろ、裁き主であられる神の子羊イエスの御座の前で喜び踊り、感謝して御父の前にひれ伏す。神を喜ばしいお方として、私たちの心に啓示する御子の声を聞き、私たちの魂は、再び神を愛する喜びに生き返る。
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